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[指定文化財][書跡・古文書][日新校区]は2件登録されています。
指定文化財 書跡・古文書 日新校区
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泰長院文書(一〇五通)十二巻
重要文化財
泰長院は、天文5年(1536)龍造寺大和守胤久によって建立された曹洞宗の寺院。もと今の佐賀城内にあったものを、慶長年間(1596~1614)佐賀城構築の際、現在の地に移された。現在は、臨済宗の南禅寺派に属している。 泰長院に保存されている文書は、全部で105通あり、これを大小12軸の巻子に仕立てられている。これを大別すると次のとおりである。 1、龍造寺氏から当院の住僧にあてた書状。隆信(2通)政家(2通)高房(5通)村田安良(2通) 2、鍋島氏から当院三世住職是琢和尚にあてた書状。直茂(10通)勝茂(18通) 3、肥前国内諸家その他からの書状。江上氏、神代氏、元佶和尚(各1通) 4、文禄慶長年代朝鮮役のとき、敵国諸部将から鍋島直茂にあてた書状その他(62通) 5、是琢の日記(朝鮮在陣中のもの1巻) 上の内、1,2,3の肥前国内関係のものは、おおむね私信といってよく、寒暑の見舞、物品贈答の添状謝状、また茶事の招状などである。この私文書によって、是琢(ぜたく)が直茂、勝茂父子といかに親密で、かつ信任されていたことが知り得られる。 一方、4に属する朝鮮軍部将の書簡は、ほとんど講和についての内容をもっており、直茂が戦闘部隊の指揮官の外、外交についての重要なものであることを特記しなければならない。 この寺に、これだけの重要文書が遺されているのは、泰長院の住職是琢が直茂に従い渡朝し、外交担当の要人として渉外に関与していたからである。また、5の是琢日記も貴重な文献である。
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末代念仏授手印
重要文化財
略して「授手印」ともいう。浄土宗の開祖法然上人(源空)相伝の念仏往生の正義を明記し、手印をもってこれを記したものである。法然上人の死後、その教義について、徒弟の間に異なった多くの解釈が行われたので、これを統一するため、高弟の一人弁長(又弁阿、聖光房鎮西上人)が法然の教義を選述し自ら手印を押したので、これを授手印というのである。 弁長の書いたものを、更に書写したのが8巻であったと伝えられるが、現存するものは次の5巻である。 肥後 往生院所蔵 聖護本 佐賀 大覚寺所蔵 唯称本 博多 善導寺所蔵 円阿本 筑後 善導寺所蔵 極楽寺本 京都 清浄院所蔵 善弁本(断簡 この中に大覚寺所蔵のものもあるわけで、唯称本というのは、唯称という人によって伝えられた意味である。一説には唯称が書写したともいう。巻尾に朱の両掌が押されている。なお、貞和(北朝)2年(1346)6月全寂、文政3年(1820)4月豊怐の後記がある。 伝来は明らかではないが、大覚寺開山が持ってきたのではないかとも考えられるが、ともかく浄土宗にとっては貴重な存在であることは、大正15年(1926)9月1日宗宝に指定されていることでも明らかである。 授手印を遺した弁長は、筑前遠賀郡香月の生まれ。承安5年(1175)14歳で仏門に入り、36歳の時法然上人に侍して浄土門の秘奥を伝承。師の死後安貞2年(1228)10月、九州に下り肥後白川往生院に住して、この記述をなしとげた。入寂は暦仁元年(1238)3月29日。ときに77歳。 大覚寺の創建は慶長11年(1606)。開山天誉上人は、もと肥前の多久長信が大旦那となって現在の境地を喜捨し、神野の極楽寺を移した形で建てられた。寺号は勅によって大覚寺と改め今日に至っている。