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[指定文化財][建造物][循誘校区]は4件登録されています。
指定文化財 建造物 循誘校区
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旧古賀銀行及び旧古賀家 二棟
重要文化財
古賀銀行は、明治18年(1885)1月に佐賀市蓮池町1番地の両替商古賀善平が設立した。明治39年(1906)5月には佐賀市蓮池町76~78番地(現在地)に本店を移転新築した。その後資本金の増資等により、大正8年(1919)末には九州における五大銀行の一つに数えられるまでに成長した。 しかし大正15年(1926)には、大正9年以降の慢性的な不況によって休業に追い込まれ、昭和8年(1933)9月には遂に解散を決議するに至った。 その後、昭和9年6月から昭和29年(1954)まで佐賀商工会議所として、昭和29年から昭和61年(1986)までは佐賀県労働会館、平成4年(1992)7月まで労働団体の本部として使用されてきた。 旧古賀銀行の建物は創建後に数度に亘ってその用途が変わったが、中でも大正2年(1913)の大幅な資本金増資のころに大きく増築され、東西方向に約2倍、南北方向に約1.5倍に拡張され、現在の規模になったと推定される。西面中央には寄棟屋根で石造円柱を有するポーチも付された。その後、佐賀県労働会館、労働組合県本部としての使用に際し、南面入り口2か所の3層の塔状突起部の撤去や内部の改造等が行われた。 この旧古賀銀行は、新しい都市機能の一端を担う銀行建築として、従来の構法である土蔵造りを採用して建設されただけでなく、その建築自身の中に改造の歴史を残している。それは、石造りの帯を巡らした煉瓦タイル張りという形式で建物の表面を飾り、少しでも「近代建築」風であろうとする点において、近代建築が地方へと浸透していく過程を知る上で貴重な歴史遺産といえる。 旧古賀家は、旧古賀銀行の西隣にあり、旧古賀銀行の頭取を務めた古賀善平の住宅であった建物である。主屋は、古賀銀行の開業に先立つ明治17年(1884)に建てられたと伝えられている。 戦後、昭和29年以降は料亭として用いられ、宴会場などへの改築後現在に至った。 旧古賀家は南を正面として屋敷を構え、町家ではなく武家屋敷に似た配置形式をとる。西側に二階建ての土蔵造りの厨房を配し、主屋は敷地のほぼ中央に建ち、東側に17畳半の座敷を配する。主屋は座敷を中心に東西に長く延び、西側に茶室、北側背面に奥座敷、南側正面に玄関を設ける。これを覆う屋根は入母屋造り桟瓦葺きで、全体の形状はT字型をなし、その前に独立した入母屋造りの玄関棟が付く構成である。 表座敷の床構えは創建時の特色を良く伝え、土蔵造りの厨房と付属の座敷も同時期の建設と見られる。座敷を始め住宅の主要部分は良く残存し、旧古賀家は本格的な屋敷構えで規模格式にも優れ、明治期の上流階級の住宅遺構として貴重な存在であり、旧古賀銀行と合わせ重要な歴史遺産である。
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旧牛島家 一棟
重要文化財
旧牛島家住宅は、佐賀市朝日町3番24号(旧今宿町63番地)に所在した町家建築で、佐賀江川に面した北側を正面として建っていた。通りに接して主屋を建て、続いて釜屋、奥には2棟の土蔵があり、水路を背に配していた。平成5年度に前面道路拡幅の際、佐賀市が主屋と釜屋を譲り受け、実測調査及び痕跡調査を行い解体し、佐賀市柳町に移転・復原され、平成9年10月に佐賀市歴史民俗館の一館として開館した。 旧牛島家住宅の屋敷地は、嘉永7年(1854)「下今宿町竃帳(かまどちょう)」に下今宿町の姥役(おとなやく)を務めた問屋を営む高柳伊助の屋敷として記載される。明治23年(1890)制作の銅板画「佐賀県独案内(ひとりあんない)」にも、煙草仲買商・海陸運漕店を営む高柳伊代助の店として外観が描かれる。明治後期以降は油屋を第二次大戦時まで営んでいたという。 解体された主屋の外郭は「佐賀県独案内」の描く姿と異ならず、屋敷地の規模も7.7間、奥行き18.5間で、「下今宿町竃帳」記載のものと異ならない。以上と建物形式から主屋と土蔵の建立年代は江戸期に遡ることは疑いないが、佐賀市の旧城下町域に残される町家建築と形式技法を比較・編年した結果によると、主屋が建てられたのは18世紀に遡ると推定される。 解体時の調査によると、建築当初の主屋は西側と南側に土間を巡らし、居室部に表の間と中の間を設けた単純な平面構成で、2階は表の間のみに設けられ、中の間・土間部分は上部を吹き抜いている。座敷と目される居室はなく、表の間2階に床柱のみ設けられる。柱を間引かずに整然と建て、南側の閉鎖的かつ広大な土間空間を備える点と、床と床脇からなる定型的な座敷飾りを備えない点が、江戸中期の特色を示している。当初の表構えは土蔵作りではなく、2階に出格子を設け、1階は大戸と蔀戸(しとみど)を建て込んだもので、その姿は「佐賀県独案内」にうかがえる。 主屋には明治中期に至って、南側の土間空間に続き間の座敷が設けられ、明治末期には2階表構えが土蔵造りに改められ、さらに釜屋を建て替え、表構え1階東側にも出格子が設けられ、それぞれの時代にふさわしい姿に整えられてきた。 佐賀旧城下町域に残された町家建築の中では最古のもので、多くの改造を経ているとはいえ、城下町における生活の基盤をなした町家建築の江戸中期の構成を知る遺構として貴重な存在であり、数少ない佐賀の明治期における町家建築の構成を知る資料としても貴重である。
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旧福田家住宅 一棟
重要文化財
旧福田家住宅は、明治末期から大正期・昭和初期にかけて、佐賀を代表する実業家として活躍した福田慶四郎の居宅である。大正6年(1917)9月3日に起工し、翌7年10月25日に落成したと、棟札に記されており、戦後の一時期は佐賀県議員会館として利用されたこともある。 北面して建つ入母屋造り二階建ての主屋を中心に、和洋それぞれの様式の応接室や数奇屋造りの茶室などを配し、南側には庭園、東側には土蔵が設けられている。 建物の内部は、細部に至るまで丁寧な造りであり、接客のために多様な空間が用意されている。また、落ち着いたたたずまいの中に、華やかなアクセントがちりばめられ、端正な中に華麗な表情を見せている。 江戸期に完成した伝統的建築技術は、近代には技術と芸術がその頂点を極めたとされる。この旧福田家住宅はこうした特徴をすべて備えた、大正期の近代和風建築である。
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旧三省銀行(付属棟含む)一棟
重要文化財
三省銀行は、明治15年(1882)7月に佐賀藩士柿久栄次を頭取として設立された三省社を、明治18年に正式の銀行に改めたものである。当初は順調な経営であったが、投機師専門の金融機関化し、明治26年(1893)、廃業するに至っている。 その後、この建物を買い取った杵島郡大日村の医師木塚紋太郎が、医院を開業し、昭和4年(1929)には池田医院となり、昭和51年(1976)まで営業を続けた。 建物は、三省社創業時の明治15年に新築されたもので、南面して建つ妻入り切妻造りの主屋の背面に、庭と土蔵などが設けられている。 医院時代が大半であるため、そのための改造が大きかったが、平成10年(1998)の解体修理により、新築時代の形状に復元することができた。内部は、佐賀の伝統的町家の形式である吹き抜けのある中の間を中心にしつつ、業務用建築らしい大らかな空間構成をとり、外部は上方に向かってふくらみを持つ屋根や、大胆な形状の窓など、人目を引く特異な表情を持つ。 このように、明治時代前期の息吹をも感じさせる、他に類例のない、個性豊かな建築物である。