千葉胤正(胤誠)の墓
千葉家は下総(千葉県北部・茨城の一部)の桓武平氏で、蒙古襲来の文永の役(1274)に九州に下向した武士団で、戦後そのまま小城の晴気荘の地頭となり、小城・杵島・佐賀の一部を領した。全盛時代は、肥前国主と自称し小城を国府・尼寺国府を府中と呼ばせたこともあるが、戦乱の頃は親子兄弟の内輪もめが絶えなかった。
永祿2年(1559)正月11日、龍造寺隆信によって千葉胤正の小城晴気城は落され、兄の胤朝は陣没。少弐冬尚は逃れて仁比山で自害した。
胤正は、この仇を打つには神代勝利の力を借らねば出来ないと考え、勝利に援を乞いに山内に来た。勝利は若い頃一時千葉家に居たこともあり、胤正を三瀬の土師村に住わせた。胤正は家伝の八龍宮を氏祖と崇め、妙見菩薩の祠を建て祀った。
仇討ちの機をうかがっていたが、来せぬまま文禄2年(1593)逝去。『平日義大神祇』とおくり名(法名)され、皿山の西の丘に葬られた。ここを屋形山というのは、千葉家の家柄に対する敬称で、館の字を当てない。
ここには敗戦後まで、立派な松があった。江藤新平はその末孫という。
一緒に葬ってあるのは、胤正の一人娘で数奇な一生を送り寛文元年(1661)7月晦日卆。眞如院殿妙光日住大姉である。