検索結果 RESULT
[神社仏閣][墓][金立校区]は3件登録されています。
神社仏閣 墓 金立校区
-
古賀穀堂の墓と静古館跡
古賀穀堂は安永7年(1778)寛政の三博士の一人である古賀精里の長男として佐賀城下西精町に生まれた。穀堂は幼年の頃より学問を父精里に学びその英才と識見を称揚せられ後年佐賀弘道館の教授に任ぜられた。文化14年(1817)父精里の逝去に遭い江戸に赴むいたが天保元年(1830)隠居により佐賀へ帰った。晩年この地に家塾として静古館を築いた。穀堂時に天保7年(1836)9月16日享年59歳で死去。遺骸を静古館の所に葬った。今は木や苔が繁茂し当時の遺構は何一つ残っていないが、ただ周辺の閑静なたたずまいだけが当時を偲ばせてくれる。 金立町字大門、金立神社第二鳥居の在り所より道を東に進み5、60mで墓地に達する。 墓地は余り広い区域ではないが大檜樹の下に穀堂先生の墓を第一に左記の如く並んでいる。(其後檜は惜しいことに切りたおしてしまった) 西側より東面するもの北より順に 穀堂古賀先生の墓 燈篭が立ち其の北側には墓碑が立っている。 良密儒人宮富民墓 琴友儒人江口氏墓 古賀坤嗣子蘭秀之墓 同 庶子蘭声之墓 古賀聰関儒人之墓 鳴呼儒子蘭玉之墓 東側より西面ずるもの南より順に 鍋島綾子之墓 素堂古賀先生之墓
-
島義勇の墓
島義勇は安政3年(1856)鍋島直正の命により蝦夷、樺太の原野を踏破して調査し、現在の札幌市街の建設を始め開発に貢献した。明治7年(1874)の佐賀戦争の中心人物として江藤新平とともによく知られている。義勇は憂国党と称する佐賀の不平士族の党首に推され、同年2月、大久保利通のひきいる政府軍と戦って敗れ島津久光を頼って薩摩に向かったが、鹿児島で捕えられ故郷に護送され、嘉瀬の刑場に露と消えた。島義勇の墓は来迎寺の山門入って左側にある。墓石の表に楽齊島府君之墓、裏に明治七年甲戌四月十二日卒行年五三歳と記してある。
-
観音寺住職法印の墓地
西隈部落の南にある法印の墓地がある。墓石の法塔には下記のような住職名及其他が刻まれている。 権大僧正慶舜(当山開厳) 昌舜大和尚 第四世法印栄舜大和尚位 六世垣舜塔 権大僧正真舜塔(寛政2年5月3日寂) 法印範舜塔(嘉永2年西正月10日寂) 信楽院権僧正舜如塔 十三世定舜 不明 塔 権大僧都秀舜塔(於野州真岡円林寺寂) 蓮光院舜昌塔(嘉永廿元戊甲年2月16日寂)