右近刑部少輔墓
天永年間(1110~1113)菅原道真の子孫右近民部太夫良遠が肥前に下向し、蛎久天満宮の社職を命ぜられ、其子満遠は対馬守に任ぜられ蛎久の地頭となり、その後数代を経て刑部少輔の代となって鍋島直茂に重く用いられ知行五十石を領し慶長年間(1596~1615)佐賀城下建設にあたり建設頭人を命ぜられた。刑部はその時中元寺新右衛門其他の有力者と計り、十数年間あらゆる辛酸をなめ艱苦に堪え、遂に蛎久、岸川、植木の町家を佐賀に移転し、八戸町、六座町から白山町、呉服町、東は高木町、慶長町に至る佐賀城下を造りあげた。そして自分も町人となり伊勢町に旅人宿を経営し、傍ら内密に目付役を仰せ付けられた。なお慶長年間(1596~1615)朝鮮出兵に直茂副将として出征の際には、刑部は病気のため従軍できず嗣子生良が御用を拝受した。生良の生の字は直茂の前名信生の一字を戴いたものである。刑部は佐賀城下建設の功業をとげ元和元年(1615)7月没し、その墓は蛎久の栖竜院にある。