三蔵塚
かつて、堀立分柴野から西南約200mの所に、自然石の高さ1間程の碑があった。(現在は老松神社境内に移転合祀)、そのいわれを述べよう。
元亀元年(1570)、肥前に乱入した大友の大軍は、今山の戦いに敗れて総崩れとなり東へ逃走した。敵の一族大友三蔵も部下と共に、小副川方面から川久保方面に出て、さらに南方柴野付近まで逃げ延びたが、龍造寺軍の追撃が激しく遂に討死した。土地の人が碑を建てて、その霊を慰めたのが三蔵塚である。
明治42年合祀前までは、毎年7月21日夏祭が行なわれ、露店も多く余興もあって、老松神社に次ぐ祇園祭りで賑わったという。
三蔵塚を始め、1、2坪の塚が柴野、稗蒔分の田んぼに点々と5、6か所にあったが、現在は殆ど姿を消してしまった。こんな塚が他にも2、3か所にある。若宮本村の北方長崎本線の側にも廟角があって5、6坪の草地の中に1基の碑が横たわっている。年代も人物も判明しない。下九郎社付近の本明の前の塚や上野中の田んぼの中、それから若宮、堀立、柴野、稗蒔へかけての塚から推量すれば、これは大友軍の戦死者の墓で敗走の道筋にあたるようだ。
話は前にもどるが、三蔵は入道して三蔵法師といい、大般若経を入れた経箱を常に身のまわりの者に担わせていた。敗走の途中、下和泉の也足庵にこの経箱を預けたものが現存するという。