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[神社仏閣][仏像][本庄校区]は6件登録されています。
神社仏閣 仏像 本庄校区
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梅林寺(庵)観世音菩薩立像
梅林庵山門外の堂宇に観世音菩薩の立像が安置されていた。これが文政11年(1828)の大風で堂宇と共に吹き倒され損壊し、50年以上過ぎてもそのままであった。明治14年(1881)に信徒の2人が発起・協力して立像を修復し、本堂の一隅に仮安置していた。このことを知らずにいた信徒衆が、昭和の中頃に立像を見つけ出した。ところがこれに仮安置までの経緯が記されており、終わりに後世へ堂宇の再建を促してあった。発起した先祖の意を汲んだ末裔らが、昭和47年に境内に堂宇を再建して立像を安置し、先祖の遺志に応えることができた。 木札の墨書(原文) 原ルニ斯、観世音菩薩ハ昔時山門外ニ美々タル堂宇アリテ安置スト、然ルニ過グル文政年度風災ノタメ尊躰堂宇、倶ニ吹キ倒シ、再興スルモノナシ、尊躰四支(肢)共ニ脱落シ僅、面胴ノミ胴傍ニ棄存シテ五十四星霜ヲ経過ス茲ニ信者清藏ト外壱名協力シ重(修)ヲ加ヱ仮ニ安置ス、堂宇再建ハ後ノ信徒ヲ待 明治十四年辛巳三月 安座日 現世安穏 発起人 坂井清藏 現住鶴瑞誌 貞富伊兵衛 後世善処 村中信男女中
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寳持院跡西川内観音堂と観音像
西川内公民館児童遊園地に接して観音堂があり、千手観音像が安置されている。これは、廃寺となった寳持院の一部と考えられる。今まで地域の有志で維持・管理と祭祀が続けられてきている。平成7年(1995)、公民館と併せて観音堂も改築され、千手観音像の修復も行われた。観音像の詳細は、誰もが知らずにただ崇拝だけは途絶えることなく続けられてきた。これの修復の機に観音像の底部に墨書が判明、像の詳細を知ることが出来た。 像高40cm弱の小ぶりの千手観音坐像である。材質・造りなどの価値判断は出来なかったが、墨書から貴重な歴史資料、文化財として高く評価できるものである。 「観音像底部の墨書」(原文) 肥前小城郡西郷醫王山三岳寺 住持義完叟謹奉拝刻 為悉皆成佛者也 正徳二壬辰年十二月吉祥日 願主村田隠岐殿御内方 作者=小城市小城町池上の三岳寺、5世住職義完 [注]三岳寺:徳川家康に信任が厚かった学僧・閑室元佶が開山。 義完(寛):三岳寺5世、僧名・慶信、仏師名・栄信、三岳寺所蔵の県重要文化財の千手観音菩薩坐像、閑室元佶像は和尚の作。 願文=完全に佛になること、佛の世界に入ることを願い先祖の菩提を弔う。 時期=正徳2年(1712)12月、父・村田政辰が宝永8年(1711)2月20日に卒し、一周忌を済まし、三周忌前と考えられる。 [注]正徳2年の頃は、『葉隠』の口述者・山本常朝と筆録者・田代陣基が語り合った時期。2代藩主・鍋島光茂の側室・霊寿院が亡夫追善の法華経一千部を読誦、結経の碑「大乗妙典一千部」塔の建立と同時期。 願主=久保田村田家の政辰、同室の養子・村田隠岐守政盛{寛文11年(1671)〜享保18年(1732)}の室(夫人) [注]村田政辰:実は鍋島直弘(初代藩主・鍋島勝茂の四男、白石鍋島家)の二男、村田氏久の養子、氏久の娘婿。 村田政盛:実は鍋島光茂(2代藩主)の五男、村田政辰の養子、政辰の娘婿、母は霊寿院か。
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本庄神社刻像弁財天
神殿裏側に、文政13年(1830)刻銘があり、琵琶を抱いた像を彫った弁財天の石祠がある。 弁財天は、河沼の水辺に祀られ水の神として信仰された。しかし、土地を沃する五穀豊穣の神格は、わが国古来の食物の神である宇賀神と同神となり、また、市杵島姫命と習合して崇敬されていた。福徳神として江戸時代には七福神の一員となって信仰され、音楽や弁財を司る神として妙音天とも称され、琵琶を抱いた尊像も造られて花街の女性の信仰も集めていた。さらに、神体を蛇神につくり、巳待ちの本尊として崇められ各分野の人々によって信仰されているのが弁財天である。 古代から信仰の対象になっている脊振山、金立山、天山などの神山には、弁財天が奉祀されているが、おそらく農業用水の供給源としての水神信仰がこれらの神山には古くから存在していて、この水神信仰が水神としての弁財天と結びついていったものであろうと考えられている。
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本庄神社閑叟公の地蔵さん
社殿の西側に舟形光背を負い、蓮華座上の半肉彫像の地蔵菩薩が方柱石上に安置されている。 この地蔵さんに昔話がある。 10代藩主鍋島直正公が、幼少の頃、父君について本荘の宮へ祈願に来ていた時に境内の池の側の地蔵さんの頭にのり、飛込んで水遊びをしたそうで、晩年この地蔵さんにお詫びに祭田4反歩を寄進して丁重に祀られたという。以来閑叟公の地蔵さんと呼ばれている。
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寒若寺と薬師如来
【宗派】曹洞宗 【山号】酒袋山 【本尊】薬師如来 寺伝では、奈良時代の高僧・行基が開山で聖武天皇の命による国家安穏の勅願所であった。奈良時代、九州各地に流行病や災害が絶えなかったので、行基は、楠1本から7躯の薬師如来像を刻み、川副七か寺に安置し、祈念した。川副庄一木七佛薬師如来である。 この内の一佛が寒若寺の本尊となっている。薬師如来を中心に、左右に日光、月光の脇侍菩薩と十二神将が配してあり、今も病苦を治すためになる薬師として川副七仏薬師参りが続いている。 参詣は、元木から初め、木の末で詣で納めとなる。参詣順番堂場は、1番:徳富・東光寺、2番:寺井・長福寺(※)、3番:崎ヶ江・法源寺、4番:米納津・東光寺、5番:南里・正定寺、6番:新郷・本願寺、7番:袋・寒若寺(本庄町袋)となっていた。 ※安龍寺のこと。『佐賀県近世史料第十編第一巻』「真言宗由緒」p254に、「当寺之儀ハ、以前ハ長福寺と相唱」とあり。
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慶誾寺銅造地蔵菩薩立像
本体は一鋳造り、台座に差し込んで鉄釘2か所で留める。台座は前後合せ型。本体右袖の下方に型持の銅釘を2か所確認できる。体内に薄く中型土(なかごつち)が残り、像表側は灰色、芯側は肌色を呈す。頭部内の中型土(なかごつち)は一部除去されている。錫杖柱は右手を通し、台座の穴に差し込む。錫杖頭は銅板切抜、錫杖柱は鉄製。頭光は肩に鋲3点で留める。頭光は界線を二重に陰刻し、左右と頂に計三つの宝珠を毛彫で陰刻する。台座敷き茄子部には亀甲文を、正面には鼎文を陽鋳で表現する。 像高49.0cm 頭頂〜顎11.2cm 面幅8.2cm 面奥15.5cm 肩張15.5cm 肘張16.5cm 裾張17.0cm 胸厚8.0cm 腹厚8.5cm 頭光径24.5cm 台座高11.7cm 陰刻銘(像背面部) 「鹿子村慶誾寺廿三代大翁良朝 一棹證源庵主 為 両親菩提 瑞琳浄光信女 享和元年(1801)九月吉日」 陰刻銘(台座背面部) 「谷口弥右ヱ門作」