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[神社仏閣][神社][東与賀町]は24件登録されています。
神社仏閣 神社 東与賀町
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龍王宮
龍王宮は、立野地区のほぼ中央部に位置して祀られてある。元は佐賀市本庄町中島との境界にあったものを、大正3年に現在地へ移転して遷座したのである。龍王宮の左柱に「干時延宝弟八蔵○○中三月○施主、古閑権之助信重、宮司長泉寺銀昌」と刻まれており、右柱には肥前国佐賀郡与賀郷立野村古閑氏が奉納したことを示してある。 境内に「手水鉢」がある。その石台に「元禄元年戊辰霜月十八日、奉彫建石燈籠二基、八大龍王御宝前」と刻字もはっきりしている。更にお宮の裏側には「大石」があって「寛文六年、青面金剛一月」の銘がある。また北側の山頂には「文化十五年袋文左ェ門、増田嘉兵衛、篠原浅右ェ門奉納」の石像もある。 佐賀市本庄町中島との境界にあった「天神社」を、明治40年の政令によりこの龍王宮に宮寄せをした。以前から毎年10月18日には龍王祭りと天神祭りを盛大に挙行したが、戦後の中の天神祭りは農地改革により免田を手放ししたので経費に支障を来たした。しかし今日まで大祭りと小祭りの二つに分かれて、番帳を順番に廻して継続実施している。
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鍛冶屋の天満宮
鍛冶屋の北部に鍛冶屋天神を祀る氏神さんと、近くに稲荷大明神があり、その御堂の後方には巨大な椋の大樹が亭々とそびえ立っている。樹齢も300年近くはあると思われ、佐賀県の名木・古木の指定を受けた住吉神社の藤の木や下飯盛八幡の大楠にも匹敵するようである。 鍛冶屋の天満宮は、昔は現在の馬場氏住宅の東部にあったらしく、明治40年の「宮寄せ」の法律によって、佐賀市本庄町鹿の子天満宮へ寄せ宮を余儀なくさせられ、当時の鳥居及び山犬等も移転してしまった。鹿の子天満宮を見ると、現在二重の大鳥居があるがその一対は、この鍛冶屋より移転寄進のものである。このことは東与賀の古地図でも証明されるところである。したがって鍛冶屋の天満宮には、鳥居や社殿もなく、小高い地所に二坪の御堂があり、菅公(菅原道真)の木像を祀ってある。製作者も年代も不明。 この御堂の側に、稲荷大明神の石碑がある。これは安政2年(1855)の建立である。それと並んで南無阿弥陀仏碑があるが、宝暦4年(1754)のものである。その他万霊塔安永7年(1778)明治11年再建施主は、当村辻小路9人とある。
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船津八幡宮
船津の村落の北端に、船津八幡宮を祀っている。創立400年とあるが、その年月は不詳である。元禄の頃の創建とも言われ、本庄町の鹿の子との関係が深い。これは実久の村岡氏宅に保存される「八幡宮遷座の絵図」によって証明されるようである。もともとこの「船津」は「鹿の子船津」の名称が今日も残っており村落の形成上の関係が濃厚である。宮の鳥居には「安永七年戊戌四月吉日奉寄進御宝前」と刻まれ、施主副島内蔵之介外4名の銘がある。八幡宮における宮祭りの番帳さんが現在残っている。元禄時代の古い紙片に書かれたものであるが、その番帳さんに紺屋や油屋等の家業名が記されている。これらによって当時の集落の状況も想像されるのである。しかも農家は米の利息金でお祭りをやったが、漸次に農家が減少したために、宮祭りもできなくなった等の記録も残っている。 この境内には天照皇太神宮の大石(元禄7年甲戌2月11日建立)をはじめ、明治・大正時代に奉納された盥漱・狛犬や、また昭和13年奉献の燈籠等が数多く並べられて、村落民の信仰心の厚さが証明され嬉しい限りである。明治・大正・昭和と戦前までは東与賀村における三大村社の一つとして地域住民の崇敬が広かったのもここに大きく起因するものである。
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西の宮
西の宮は農家の餅祭りで田の豊作を祈願するものである。毎年5月21日の苗代かきの頃と、10月17日がその例祭である。その前番帳さんの家で紅白の餅を2斗搗(つ)き、当日早朝7時に「伊勢皇太神宮」と書いた旗を立てて戸主がお供しご馳走の行列をつくり、お宮に集まるのである。定刻になると粟島神社の宮田宮司により祭典が始まるが、祭壇には大きい紅白の餅を中心に酒肴・白餅米・赤飯・野菜・果物等が所せましとばかりに供えられている。宮司の祝詞がすむと、若者数名がお宮の屋根に登り、神に供えられた紅白の餅を参詣の人々に投げ与えるのである。何しろ2斗にも余る大小の餅を屋根上の天上から振りまくのであるから、下界で拾う人々は大賑わいである。餅拾いも上手下手があって、多く拾う人は30個や50個も拾い、下手な人は僅かに2、3個、それでも拾った餅を大切に家に持ち帰り、家内中で食べて安全と五穀の豊饒を感謝するのである。 戸主は今年番帳さんの家でご馳走があり1日中楽しみ夕刻になると「番帳さん送り」といって、三味の音と共に次年度の番帳の家に行くのである。
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北のお宮
北のお宮の沖仲大明神は漁業の神様で、数年前まで旧9月21日が例祭であったが、海苔の関係で毎年9月20日前後に改正された。このお祭り当日には、今年と来年の当番は紋付羽織に藁草履で正装し「沖仲大明神」の幟(のぼり)を先頭に、海の幸(魚)山の幸(ぎんなん・山芋)里の幸(くわい・いも)の五種の神饌(しんせん)をかついで神社へ行列する。特に来年の祭り引継者(番帳渡し)は、顔に白粉や紅や墨で面白おかしく化粧して、三味線を弾き歌いながら来年の当番の家まで行列を作っていく奇習がある。これらは素朴ながら豊かな農漁村でなければ見ることのできない昔ながらの風俗習慣である。 この宮は古来今町の東北部旧堤塘の東側で旧江の西部に大明神社として、相当の広さの境内を有する社殿であった。ところが昭和8年より2・3か年間にわたって、八田江の大改修が施行され、そのためにこの神殿および境内の全部を取り壊され移転のやむなきに至った。しかし移転し新築するには過去の証明書や新築願書それに多額の経費や地所面等、種々の困難も多かったが、当時の宮司故野田春吉をはじめ信仰心の厚い氏子総代等の努力によって、昭和50年3月現在の位置に威風堂々と新築落成がなされたのである。
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西の宮(搦の山)
搦村落で最大で高貴の宮は「西の宮」で、通称を「搦の山」と言い、海に関係の深い龍王さんと金毘羅さんを石の階段35段その山頂に祠を構築して祀っている。この「搦の山」は今から100年前に当時の若い青年団員等が協力し団結して、幾百日を費して築き上げたという、まさに汗と力の結晶で、一つは遠くの海上よりの目標となり、また高潮時における海水の被害を防ぎ避難の場所ともなったのである。
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東の宮
「東の宮」は地蔵尊を祀り、天保4年(1833)に建立されたもので、施主は「搦村田中平八」とある。直ぐ側に天照大神・弘法大師・不動明王・十一面観音・天神等を合祀されこの村の人々の信仰の深さを物語っている。
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天満宮
梅田公民館の南側の境内に氏神様として、菅原道真公を祭神とする天満宮がある。新しい村作りはよい子を育てることにあることから、幼年時代からよく勉学に励み将来この村落を背負って立つ立派な人間になってくれよと祈念して、まずは天満宮を祀ったのである。この天満宮の外に境内に身代り観音を祀ってある。昭和49年7月にこの邑の3歳になる女の子が交通事故に遭って死亡したことから悲しみに耐えず遂に身代り観音の建立となったのである。 氏神としての天満宮祭は毎年10月25日、夏祭りの祗園は8月13日、観音祭は8月7日が例祭日である。例祭に必要な経費は、各家々から徴収したり寄付するのではなく、日頃普段に上がったお賽銭で賄い年間の4万円ぐらいで楽にできるとの事である。また毎日毎日のお茶・お水・御仏飯等は当番制で家廻しに用意し、次々に諸道具を送ることになっている。この村でも以前は子どもの行事として、この境内にほんげんぎょうもやったが今日では廃止している。
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八幡神社と天満宮
東与賀町の中央を南北に貫いて佐賀市街地へ通ずる県道に沿い、この村の西部に位置して、しょう洒な宮居がある。普通「お八幡さん」の尊称でこの村の守り本尊として鎮座されている。この宮は八幡神社と天満宮の二つの神が合祀されていて本町内では珍しいことである。大鳥居の正面に二神併祀の額束が大きく掲げられている。明治34年に再建されたが、昭和30年5月に改築され、更に同43年7月県道の拡幅工事の際にも改築工事を余儀なくされた。 天満神社の御神体を見ると、佐嘉柳町佛師北村儀平作明治10年3月とある。改築前の社はいつの頃建てられたものか不明。鳥居の右柱には「明治二十五年辰歳九月吉良日・当邑中建之」とあるので、比較的に新しい。ただこの宮の境内は創建以来広々とした社宇と境内を誇っていたが、佐賀市街地へ通ずる県道開通以来相当に狭くなった事は残念である。 狭くなった境内には太神宮・中尊神等一緒に並べて祀られてある。太神宮の右側面に「享保十七年(1732)八月吉日處立之」と刻まれている。その台石には寄進者とみられる横尾千之允・蒲原治兵衛・徳久善蔵・仝儀左衛門等の氏名が列記されている。これらの氏名は現在下古賀や飯盛・新村等に居住する人々の姓を考えて、この上古賀から下の村落へ漸次分家や移住したのではないかと思われるが、このことは正保絵図にも出ていて一つの証拠とも言える。 両宮の中で天満宮の例祭は毎年11月23日(勤労感謝の日)に、八幡神社の例祭は12月15日と決めて挙行している。従前は12月15日と25日(新米ができた頃)であったが、終戦後前記のように改正された。この両日は早朝7時に免田(約1反歩宛)を耕作した番帳の戸主が、お供えの赤飯(約2俵の餅米)を蒸してお宮に運ぶ。これを全村落の老若男女全員が参詣して神酒を戴き赤飯の供饌を食べ、豊年を感謝し家内の安全を祈願する。当日の昼は番帳の家で戸主全員が集合し、規約によるご馳走に加えて芸者も加わって賑やかな祝宴が開かれる。夕刻には小中学生の子ども達にも供饌が渡されたり、夜は青年仲間に公民館で祝饌が供されて、この1日は全住民挙げて祭礼気分と親善融和の佳き日となる。特に祭礼前夜のお当夜には、小中学校の男児等がお宮の参籠にこもり遅くまで住民の参拝を待ち、甘藷(菓子・蜜柑)とお茶を接待する風習が続いている。この頃は寒気が襲って小雪ともなるが、広い神苑に焚火をたいて暖をとると共に神への感謝と豊年を祈るのである。
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龍王神社
作出村の産土神社は家屋の一番密集する地帯に鎮座まします「龍王神社」である。村社にでも匹敵するほどに立派なお宮であるが、惜しいかな創立も由緒も不詳で明確でない。祭神は大綿津見の神で五穀豊穣と海辺による潮害を防ぐための祈願にこの宮を建てたのである。旧社殿は葦ぶきの屋根で南に面していたが、現在の神社は昭和15年新築完成した。即ち紀元2600年を記念して再建されたもので、鳥居・手水鉢・狛犬・灯籠などすべてに「紀元二六〇〇年記念」と銘が入っている。鳥居の製作者は石工古賀形衛門である。この紀元2600年は西暦1940年の昭和15年に当たり、当時のわが国は八紘一宇・大東亜共栄圏建設を唱えて、軍国主義思想が最も旺盛な時代である。この龍王神社に参詣すると、戦時中における様々な想い出が偲(しの)ばれて感慨無量である。全国の各地でこの当時、神社や施設ができたが、本町内に紀元2600年を記念して建設されたのは余り見当たらない。言わば貴重な存在である。 この神社は作出と中割の中央に在り民家の密集する地帯で、住民氏子の参拝を容易にしていることが特徴である。しかも公衆礼拝の施設を備え、境内の中に20坪余りの参籠を有し、ここが村民の集会場となり公民館となって大いに活用されている。例祭は年3回で正月(元旦)・祗園(8月1日)・供日(10月15日)に開催する。約20数年前までは1年1年に当番が決まって、番帳さん渡しも励行されていた。特に祗園は盛大でその年に入団した青年たちの献上した御神燈が、夏の夜空を飾ったものである。その提灯は唐獅子にぼたんや天に舞い昇る龍神等の絵入りの御神燈で、それに氏名を染め抜いて、青年団入団の自覚と決意を神に表明すると共に、その御加護を祈願するものであった。しかしそうした行事や風習も漸次下火となって一抹の淋しさを禁じ得ない。
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天満宮
この新村のほぼ中央に、菅原道真公を祀る「天満宮」がある。現在も村の東端に「天神免田」が残っているが、昔はここにこの「天満宮」を祀っていたらしい。それを昭和40年10月この位置に遷宮され、以前葦(よし)ぶきの屋根も社殿もすっかり改造され面目を一新した。鳥居は大正10年に建てられたもので、寄進者として横尾儀助外10名の姓名が見られ、石工は古賀形左衛門・塚原○七と刻まれている。 天満宮の例祭は、精進まつりと東まつりの二つのグループがある。資金作りのため経費を少なくする精進組に約20名が加入し、東まつりは魚料理を主として約9名が参加している。このお祭りには規約があって、年1回開催され毎年10月15日が例祭日である。今年当番の家に番帳さんが回され、当日の賄いについても詳しい規約が決められている。 お宮の境内には地蔵さんはじめ塔や石像等が合祀されているが、文化・文政時代(1804〜1817・1818〜1829)のものが多い。古いので安永7年(1778)の三界万霊塔がある。文政元年(1818)の石像には、施主山崎安兵衛外3名の氏名が刻まれてあり、その外に文政2年と3年と3か年続けて2体が合祀されてある。更に境内の一隅には八大龍王も祀られて、この新興村に安住する人々の信仰信心の深さを知ることができる。
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八幡宮
中村村落の北端に、応神天皇を祀った八幡宮がある。古老の話によると、昔この地所に庵寺があってその跡に現在のお宮を建立したという。境内には経塔がありその側に三界万霊のお地蔵さんがある。拝殿の東側には4基の石碑が並んで祀られてあり、掃除も行き届き四季折々の供花もなされている。この村人は敬神崇祖の念に厚く、昔からの伝統を受け継いで、八幡宮を当番制で毎日天候の如何にかかわらず参拝と清掃を欠かさないらしい。この八幡宮の東部には、圃場整備事業の一端として、農村公園が見事に新設され、学童や幼児の遊び場として、また老人クラブのゲートボール場として大いに利用され活用されている。
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若宮社
【儀祭】旧11月3日 【社殿】779㎡(236坪) 【境内地】779㎡(236坪) 【由緒】 東与賀町内で若宮社の存在はここだけで珍しいことである。境内には寛文12年(1672)に建てられた庚申さんや、明和5年(1768)にできた地蔵さん、元治元年(1864)に祀られた天山権現さんが共に合祀されている。 この辺一帯は、鍛冶屋とともに「嶋内」といって、小高い台地であったことが古文書に記録されている。それを証拠づけるように、この宮の境内に「嶋内氏子中」と刻まれた地蔵さんが祀られている。
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天満宮
【祭神】菅原道真公 【儀祭】8月1日、大祭と小祭は、10月17日と11月25日 【社殿】石造の祠である 【墳内地】350.41㎡ 【由緒】 船津八幡宮より分祀されたとの風説がある。鳥居には明治26年改築したと明記されてある。
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大明神社
【祭神】天照大神 【社殿】旧社殿 本殿1坪 拝殿6坪 新殿 本殿2坪 中殿1坪 拝殿4坪 【境内地】旧社殿36坪 新殿74坪 【由緒】 この宮は、沖仲大明神とも称し、明治のはじめ頃、漁師のこぐいという網に海の中の石碑が、かかってきたものをお宮として祀ったと言い伝えられている。 古来より旧堤塘の東側に祭祀され相当の広い境内を有していた。ところが、昭和8年頃より同10年4月に至る約2〜3か年間にわたって、八田江湖の大改修事業が行われた。そのために今までの社殿を現在地に移転新築したのである。
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太神宮
【社殿】旧社殿 新殿 【由緒】 普通西の宮とか太神宮さんと呼び、農業の神として田の豊作を祈願するものである。昭和55年3月20日改築したもの。
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天満宮
【祭神】菅原道真公 【儀祭】8月1日、10月田刈前の日曜日 【社殿】13坪 【境内地】44坪(前座) 【由緒】 昔は北天神と南天神を祀っていたが、現在では一緒にまとめて天満宮と称し、皇太神宮とともに弘法大師も合祀している。 現在の天満宮は、昭和53年に新築されたもので、鳥居は明治25年5月建設され、左柱の裏面に「石工・宮崎畦吉」の名前が刻まれている。 神社の北側に経塔がある。「謹奉漸讀大乗妙典一千部成就修、願主徳久伊右衛門」右の側面に「宝永元甲申歳(1704)六月吉祥日」と刻まれている。これは天災地変や疫病の厄除けに建てられたものである。 境内には、天照太神宮さん2基と天神さんの石像が祀られている。天照太神宮は延宝7年に建てられ、寄進者は荒嶋長兵衛ほか13名の名前が見える。 天神さんの石像は、安永2年(1773)の作であり、奉納者は林勝十・山田茂右衛門の2名となっている。
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天満宮(中飯盛天満宮)
【祭神】菅原道真公 【社殿】町内では珍しく全部石造りの祠である。本殿1坪 境内地32坪 【由緒】 古老の説によると、昔上飯盛の方から分身して祀られた2体の御神体を祀ってある。 この村に住む人々の信仰心の厚きを物語るかのように、次のようないろいろの守護神を合祀している。 庚申 寛文13年(1673) 八天狗 年代不明 地蔵尊 文化7年卯月(1810) 二十三夜 力石(2・3個)
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沖神社
【祭神】大綿津見神 【儀祭】例祭3月25日、8月1日、11月25日 【社殿】本殿 流造 間口2間 奥行1間 2坪、中殿1坪半、拝殿10坪 【境内地】147坪(486.18平方メートル) 氏子数1.020人、崇敬者200人 法人登記 昭和21年9月30日 【由緒】 創立不詳、当地は海辺につき潮害を防ぎ、五穀豊穣を祈るために神を祀り、俗称を大野神社と呼び旧名称を「沖神社」と言う。 新しい神殿は昭和53年7月5日新築工事説明会、同7月11日仮遷座祭を挙行した。 召立の事 宮司 淀姫神社宮司・粟嶋神社称宣 建設委員長=石丸朋一 副委員長=北村津代次・横尾祐次郎 建築大工 佐賀市川副町大詫間 田原丈夫棟梁 昭和53年7月16日・旧神殿の解体・同月30日地鎮祭・同月30日上棟式・昭和54年4月16日遷座祭・5月7日落成式を開催した。 境内には講中が建立した天照皇太神の石碑や2、3の石像が合祀されているが、寄進の年代や寄進者の芳名も判明しない。
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金毘羅宮
本庄町灰塚観音寺住職三好和尚より聞く所によれば、円通寺檀徒実久山口某氏が讃岐金毘羅宮へ参拝し、金毘羅御分身を受け円通寺鎮守実久氏神として、円通寺境内を借り建立す。金毘羅さんと共に記念としてモチの木(現在円通寺境内に有り)また灰塚の観音寺へ松の木を贈り植えたが、その松の木は昭和5年の台風で根元より倒れたため現在無し。金毘羅宮は、一度火災に(大正3年3月3日)あったが、ここに鎮座している。毎年12月・正月・5月には実久の氏神として例祭を行っている。
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住吉神社
このお宮は住吉村のほぼ中央に位置しており、東与賀における村社の一つである。祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命の御三体を祀り、神殿・中殿・拝殿も堂々として184坪の面積を持ち、さすがに村社としての風格と規模を具備している。現在の場所に昔は大明神として、建坪7坪位の小さい庵があった。今もその前の民家を「庵の前」と言うそうである。神社の直ぐ北側の道路を「裏ん土井」と呼び、昔の一部の石垣も残っている。明治14年2月この村の辻忠六(演年)が神社並びに石垣等一式を寄付すると言い出したので、村人は協議をなしその結果、この神社の改築となったのである。それを機会に村の名を冠して「住吉神社」と銘名したのである。 さて現在の住吉神社の堂宇および境内は、佐賀市本庄町末次にある元船津の海の守護神を祀るのとほぼ同様であるようである。 神殿の再建新築は、昭和52年8月1日この佳き日に落成式を挙行した。その時の神官は佐賀市北川副町粟島神社の宮司宮田豊、総代は古川弥六・福井利八・野田清・光増久米次であった。その年の正月に御神体を北川副町粟島神社に一時遷座し、8月1日に新築成りし神殿に御帰還になった。その際は住吉に住む村の老若男女、小中学校の児童生徒たちまで沿道に並んで、御神体を歓迎した。総工費は1.500万円、寄付金と各戸割り当て並びに特別寄付によって支弁した。 この境内は広く一対の狛犬(明治15年10月天草市石工、橋口茂一)道祖命(明治13年2月1日寄付者、芹田利平)首なし地蔵(天保13年寄進10名)献燈(2基明治36年9月吉日)手洗鉢{石垣式、辻忠六(演年)、辻武一郎}の外幟立竿石(2基)等がある。珍しいのは明治38年戦役(日露戦争)に従軍記念の砲弾の塔があり出征した25名の従軍者の氏名が刻まれてある。更に広々とした境内には樹齢250年と推定される見事な藤の大樹がある。この古木は本県の名木として指定を受けており、その他にも欅(けやき)3本・どんぐり1本等これらも相当の古木で空高く生い茂っている。これらの古木と大樹は、朝な夕なこの宮に参詣する人々をして、自ら神霊のお加護に頭を垂れさせるに充分である。
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住吉神社の神典(御神徳)
住吉神社の神典(御神徳)について、佐賀市北川副町粟島神社宮司は下記のような記録を保存している。 住吉の神は底筒男の神・中筒男の神・表筒男の神と言う河川の表面・中程・底部の守護神とされている。神典によればイザナギの尊が筑紫の日向の橘の小戸阿波岐(あはぎ)が原で、禊(みそぎ)された時に生まれました神とある。そのミソギの結果、天照大神以下三貴子の御出現を仰いでいる。これによれば前半は住吉の神は禊祓(みそぎはらい)の神であり、後半は禊祓によって皇祖神を出現させる役割の神となっている。ここに住吉の神の真の信仰を見出す必要がある。 さて住吉を今の人はスミヨシと訓(よ)むが、古事記に「墨江」・摂津の国の風土記逸文に「須美乃叡」・万葉集には「清江」とある。古くは「スミノエ」と訓んだのである。「スミノエ」と言う意味は、万葉集(巻三)に「清江」の岸の松原遠つ神我が王(おおぎみ)の幸行処(いでましところ)とある様に、清(澄)の江で水の澄んだ海岸・河口を指したものである。即ちスミノエの神とは祭に際し清い海辺・水辺でミソギ祓をして潔斎する際の守神たる事を本質とする。 ミソギ祓は今では軽く考えられているが、古くはミソギ祓いする事によって心も身も生まれ替わる信仰がその底にあったことを忘れてはならない。古典によれば「ミソギハライ」は「みあれ」の神事につながる。さればこそその結果皇祖神以下の三貴子のお出生を拝したのである。この海岸・河口における禊祓の信仰、これを媒介として人々の一層の新生を期待したこと。ここにこそ住吉の真の信仰があった。それが海岸・河口に住む者の生命を守り、これに新しい息吹きを送り航海・漁業を守る神とされたのは、当然の成り行きと言ってよい。住吉の神の神社は摂津(大阪市住吉大社)長門(下関市住吉大社)筑前(福岡市住吉神社)壱岐(長崎市住吉神社)に存するが、それらはいずれも澄の江の名を冠するにふさわしい所である。全国の住吉神社はこのいずれからの分社であろうが、その禊祓による神の息吹きは人々をしていよいよ新生更生せずには措かないであろう。
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八幡神社 (下飯盛八幡神社)
東与賀町内では明治以来村社の一つとして、神社の本殿・拝殿・社務所等も堂々たるもの、境内も広大で441坪もある。戦前から戦中にかけては武運長久の守り神としても村内外の崇敬篤く、当地方随一の参詣者が多かった。昭和20年まで東与賀村よりは、神饌幣帛料供進の指定を受けており、祭典には学校の児童・生徒も教師に引率されて参拝した。昭和11年12月には村社より昇格して、郷社への申請書を佐賀県知事に提出されたが、不幸にも敗戦となり遂にその実現を見なかった。しかし昭和49年はこの八幡社がこの地に御遷座されてから満100年の意義ある年であった。この記念すべき年を迎えて、当時八幡神社総代御厨勇をはじめこの村の長老等が中心となり盛大な御遷座100年祭が挙行されたのであった。 鍋島侯爵家佐賀内庫所保存記録および当社保存の資料によると次のような由緒が分かる。 この八幡神社は文治元年(1185)源頼朝の弟範頼が九州へ下向の際、家来の河野四郎道信に武運長久祈願のため、鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を此所に勧請されたのである。「此所」と伝うのは本庄町上飯盛の「衆議院議員中野実誕生地」記念碑の在る付近である。中野実はこの八幡神社の宮司の子息で、後代議士に当選したのであった。この土地から下飯盛の現地へ御遷座になったのは、明治7年(1874)で、その祝典には下飯盛地区民が浮立を打ってお迎えしたのである。その事はこの浮立の「モリヤーシ」に出演した幼児の中に、宮崎義三(慶応3年生)や福岡峰吉(明治元年生)が証言したらしい。御遷宮は現在地の境内大楠の南で、当時この近くに下飯盛矢房社や稲荷社があった神域だったのである。 その後は当社保存記録によると、「大正3年会計指定、昭和3年11月3日八幡社遷座50年祭、昭和5年3月8日東与賀村の村社に昇格されて幣帛供進指定、昭和11年6月1日神殿・幣殿・拝殿改築落成」となった。この落成式は東与賀全村を挙げての祝典となり大賑わいがあった。これに要した経費は当八幡社に代々因縁の深い中野実家より多額の寄付と下飯盛・中飯盛・大野の大字飯盛の氏子をはじめ、村内外の本村出身者などからの寄付金で賄ったのである。また神社に必要な鳥居・幟台・献燈(2基)狛犬(東西)・手洗石等も、敬神崇祖の念に富む氏子や町村民によって献ぜられ格式高い境内を備えている。また新築に際して貢献された中野実翁の顕彰碑もこの境内に建てられて、永久にその遺徳を偲んでいる。 ところがどこの村落のお宮や神社境内にも、庚申・地蔵尊等いろいろ合祀されてあるが、この八幡神社には全くそれらを見当たらないのが大きい特徴とされる。その代わりに楠の大樹が1本空高く亭々とそびえ立ち、広々たる神域に静寂な木蔭と爽やかな涼風を送ってくれる。根幹も胴廻りが大きく樹齢350年と想定されており、佐賀県名木の一つに指定保護されている。
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大野神社
町の軒先が建ち並ぶ大野地区のほぼ中央に、まだ木の香も馨(かお)る大野神社が、その威容を春空に映えて鎮座している。この神社の祭神は大綿津見神で、記録を探ると旧名称を「沖神社」と呼び、法人登記は昭和21年9月30日となっている。「沖」の冠詞があるように、昔はこの辺一帯は海岸であって、古老の話では「この氏神様は当初より海の守り神として祀られた」との事である。 旧社殿は歳月と共に腐朽して雨漏りさえしたことと、その西側を通る町道新設のために昭和54年5月7日新築落成した。この社殿新築に関しては、昭和51年頃から村民の世論が高まり、当時の故碇壮次町長を顧問として、元町会議員福岡兼三郎、老人会代表故北村豊次や区長山田鹿雄・碇勉・芦原末男等が発起人となり、まず隣保班ごとに3か年間を目途に1戸当たり月額1.000円宛の積立貯金を始めた。ところがその頃は年々と物価が上昇したので、むしろ早急に建設した方が得策だとの強い意見や要望が高まって来た。そのため各区長は隣保班長会を開催し、神殿建設についての協議がなされ決定されたのである。 かくて建設委員長には石丸朋一が推せんされ、佐賀市川副町の田原丈夫を棟梁として着工した。まず仮遷座祭を宮田豊宮司(佐賀市北川副町)の司会により昭和53年7月11日に、次いで旧殿の解体作業・地鎮祭・上棟式等も古式にのっとり厳粛に取り行った。遷座祭を同54年4月16日無事に済まし、待望の落成式の祭典を同年5月7日の佳き日をトして、めでたくも晴れやかに挙行したのである。 因みにこの新社殿の総工費や諸経費の合計額は、2.700万円の巨額を要したが、前述の通り村民・氏子の積立貯金および1戸平均5万円の拠出金それに篤志寄付金その他をもって当てられている。