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[神社仏閣][神社][本庄校区]は12件登録されています。
神社仏閣 神社 本庄校区
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八田の社寺
船着場附近に昔は祠堂が多かった。住吉神社、観音堂、薬師堂、若宮、阿弥陀堂等が一本釘付近にあった。今は野墓が残るのみである。 「住吉神社」は大阪住吉に鎮座する、津国一の宮の三神と神功皇后が祭神であり、古来航海守護神として広く崇敬され諸所の漁港等にその分神が奉祀された。八田区では御神体(神鏡)を廻り持ちで、住吉祭りが現在も続いている。
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梅林庵義祭同盟と梅林庵
文化、文政のころ、弘道館の教官に枝吉種彰(南濠)(1789〜1859)がいた。 文武両道に秀で国学、古典研究に励んだ。その長子が枝吉経種(神陽)であり、次子枝吉二郎は副島家の養子となり、これが後の副島種臣である。 南濠は古典研究、史学研究にもとづき「日本一君論」を主張し尊王論を唱えた。 長子神陽は、文政5年(1822)5月24日に生れ、文久3年(1863)8月14日に没した。 天保11年に弘道館に学び、父の「日本一君論」を継承し、同13年21歳のとき、江戸の昌平黌に遊学し、のち嘉永元年(1848)拡張になった弘道館に帰り、草場佩川、武富圮南(いなん)、大園梅屋、古賀素堂等とともに教官となった。 ここで父南濠から受け継いだ尊王論を唱道して多くの弟子を得た。 弘道館史学派と呼ばれた人々の中には江藤新平、大隈重信、大木喬任、副島種臣、島義勇、中野方蔵らがいた。 嘉永3年5月神陽のもとにこれら史学派の書生たちが集まり、義祭同盟を結んだのである。 嘉永3年5月25日佐賀郡西河内村の梅林庵に楠木正成父子の桜井の駅訣別像を安置し、これを祀る同盟であった。 この木像は寛文3年(1663)年深江平兵衛信渓(シンケイ)が京都の仏師法橋宗南に依頼して完成し、佐賀郡北原村(大和町)の永明寺に祀り、のち文化13年(1816)高傳寺の楼上に放置されていたものを発見、修復したと伝えられているもので、安政元年(1854)同木像は白山町八幡宮地内に安置された。
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本庄神社
本庄妙見山淀姫大明神の本地は十一面観世音で第29代欽明天皇の勅願で欽明天皇25年(564)9月28日の夜、末次村の正直者丹次郎と言う農夫が薪取作業中、突然大地が震動して、2本の霊木が生じて、五色の雲、金色の光がさして何処からともなく妙なる音楽が聞こえて、雲の中より気高い垂髫(スイチョウ)の一人の童子が出現して「我は是淀姫の神霊也」と申されて、色々不可思議な霊験を示された。領主の小寺左衛門大夫安利は丹次郎より霊験奇談を聞き、この丹次郎を連れ、上洛して欽明天皇に奏聞した。天皇は叡感ななめならず(天皇が感嘆すること)畏くも綸旨を下し賜い、なお霊場を建立された。その後小寺は神託に乗じ自ら神主となり、女房を命婦(官位ある女房)とし、同じく座主場を慶正寺と号し、毎年9月27日より28日まで、神事祭礼を掌ることとなったとある。 その後永正9年(1512)2月に鍋島清久(直茂公の祖父)が再興し、天文2年(1533)にその子清房が建立した。その後慶長17年(1612)8月直茂が神殿を新たに造営した。承応2年(1653)に至り、光茂(2代藩主)が更に造営した。 社殿宏壮にして、境内は甚だ広く、本殿より下の宮間の馬場の如きも5間幅(約9m)にして、幾多の大樹鬱蒼としていたが、今はその面影を残していない。 明治4年(1871)12月郷社に列せられる。祭神は豊玉姫命であり、仁徳天皇、日本武尊、天照皇大神、日子神、伊奘諾那岐神、龍王神、猿田彦神の七柱の神は、無格社合祀により追加をなした。また、明治40年(1907)近郊の雑社二十八社を集め合祀し、多くの石造物が本殿裏に移されている。 與賀郷の産土神社として、末次その他は與賀神社より分離し(明治4年/1871)本庄神社となり、毎年11月28日をもって祭日と定め(現在は10月)氏子区順番にて浮立、相撲、手踊等で賑わいをなしていた。 明治40年2月15日神饌幣帛料供進定 当時の氏子戸数 817戸
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妙見社
西寺小路南の国道208号沿いに、妙見社がある。 妙見菩薩を奉祀する祭神は国土を擁護し災を消し敵を退け、福寿を増す仏とされ、日蓮宗では特にこの妙見菩薩を信仰する。また妙見菩薩は北斗七星の本地で、北辰尊星妙見大菩薩とも称され、北極星を仏格化した諸星の王であって、一切の事物の善悪を記録する国土の守護神であるといわれている。中世においては、武将の中にも、千葉氏、山名氏、大内氏など深く妙見菩薩を崇敬した。 県内では妙見菩薩の石像は未発見といわれ、文字塔のみが知られている。 社殿内の妙見菩薩像は、信者の増田栄次郎氏が大正初期に製作したものである。 氏子の寺小路、溝口区住民の信仰厚く、昔から旅立ちには奥殿の小石をお守に持参し、旅行の安全を祈願して、また帰郷すれば小石を倍にして返し、無事に帰ったお礼をなす風習があった。 妙見社では年2回の祭りが続けられている。 1月(現在は第2日曜日)に大般若供養をなす。8月の豆祗園は子ども達の主催である。前日子ども達が区内の家々に1斗ショウケ(竹かご)を持って廻り、農家からは蚕豆(トーマメ)を、非農家からは金銭を奉加してもらい、蚕豆を煮て日暮れと共に子ども達の手から煮豆を参詣人に分けてやった。また青年団主催の浪曲等で、当日は賑わいをみせたが、今は子ども達の豆祗園のみが残っている。 ※「祗」の右側の表記は、「氏」が正しい。
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王子神社(若王子権現)
昔は鬼丸の宝琳院南、古江湖川の中の島に祠堂はあったが、現在は瑞応寺境内の東に移し祀ってある。 祠堂の前の明神鳥居の柱銘には、「佐嘉郡大井樋村医王山瑞応寺敬白。奉寄進御宝前氏子中天明三癸卯年(1783)二月吉祥日。」額束に「王子神社」と刻んである。 王子権現の由緒に関しては、色々話が残っている。その内の一つ『若王子権現縁起』による徐福祭神説を原文により紹介する。 「列山伝ニ曰く徐福字若房秦ノ始皇ノ時ノ道士ニシテ篤学ノ誉高キ、神仙ナリ。常ニ島嶋海辺ニ遊行跋渉養神ヲタヅネ、施薬施療万人ヲ利生シ、枯黒ノ難病ヲ治ス、尚風向帰航ヲ扶ク、神仙生涯ノ偉業実ニ大ナリ、而モ自五百年ノ長寿ヲ保ツト曰フ、本邦ニ來朝セラレルヤ有明海ニ入リ、筑後川嘉瀬川ノ河口付近ニ上陸、現在浮盃本庄間位侍数百人ト供ニ金立山ニ登ル。若王子権現社モ亦上陸乘船居住等垂迹地ニシテ、碇島左右ニ在り、其江頭ヲ望ム。社名村名ニ若ノ一字ヲ冠スル深ク旨アリ。爾來久シク、後人ノ指標追慕敬仰スル所、遂ニ文明中大宰少貳教頼、地頭龍造寺康家ヲシテ之ヲ修造セシム。同時ニ若村ヲ大井樋村卜改称ス。代々国主又之ヲナラフ。特ニ隆信公願書ヲ当社ニ納メ、翌日合戦大ニ利運ヲ得、袋、末次二村ヲ報賽シ社殿ヲ造営ス。是公ノ勝始ナリ 以下略 末尾〜蓮華寺旧跡、瑞應寺、若王子権現社ハ三位一体ナリ」
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袋天満宮
祭神は菅原道真公で、天正4年(1576)龍造寺山城守藤原隆信が天地長久領土安全祈願のため、創設せられた神社である。 当時の代官は志波藤介で、宮住は、酒袋新太郎、酒袋新七郎と由緒書に記載されている。 慶長年間(1600頃)に、鍋島直茂公が社殿を再建し、以来歴代藩主が崇敬した。 明治12年に村社に無格社より昇格する。 当時の氏子戸数70余戸であった。
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中島神社
中島区には天満宮、辨財天、宝満宮がそれぞれ氏神として祀られていた。 天満宮は野々天神さんと言い亀川氏宅東北にあったが、大水害により、大正12年に千々岩惣次郎氏宅東に移転した。 辨財天社は溝内六次氏宅裏に祀られていたのである。 宝満神社は筑前の竃門(ソウモン)山宝満宮の分霊を奉じ、社殿を享和元年(1801)11月18日建立した。祭神は、息長足姫命、玉依姫命、与田別命の三神である。 昭和5年7月に三社を合祀し、中島神社と改める。 境内には多くの寄せ石仏があるが、「疫神齋」は本庄町内に唯一で珍らしい。当時特に恐れられた「疱瘡」の流行に対する厄病神送りが、この石祠を中心に笛や太鼓で、にぎやかに行なわれたことであろう。 住民と厄病神信仰の風習は疫神祭を御霊会(ゴリョウエ)と呼んで古くからあった。 小祠に疱瘡神を祀りこめ、供物をそなえ拝み、瘡(カサ)をとってくれるよう盛大な神祭りを行った。 この祭りは、あくまで厄神を慰撫することに主要な目的があった。疱瘡は高熱を発し、病人は熱のため、奇妙な言葉を口走る。熱が去ると今度は醜怪な瘡が噴き出てくる。流行すると乳幼児ほどかかりやすいこともあり、医学が発達していない段階では、麻疹(ハシカ)とともに幼児は必ずかかる病気の一つと思われ、とくにその病状から、特別の霊がのり移り、不思議な現象を示すと信じられていた。 一般に厄病神送りの風習は村に伝染病が入ってくると、御幣を入れた藁の神輿を作り、病人の家をまわる。家の中に入り、家の厄病神をこの神輿にのり移らせようと、身ぶり手ぶりで病人の体内から厄病神を引き抜くふりをする。その御輿を笛や太鼓で、にぎやかに村境まで送り返し焼き払った。また御札や御幣はすべて赤色を使った。 農耕儀礼のなかの虫送りと厄病神送りの風習も同じようなものであった。
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満穴天満宮
寛文10年(1670)3月8日建立の肥前鳥居が社前にある。奈良時代に始まる「神仏習合」(神の信仰と仏教信仰とを融合調和すること)のため、西光寺の僧が、宮司の務めを果していた。
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藩祖がひれ伏した鹿子天満宮
鹿子天満宮は、龍造寺隆信の祖父家純が太宰府天満宮の分霊を請い受けて祀りました。祭神は、菅原道真です。龍造寺隆信、鍋島直茂はじめ歴代藩主が崇め敬った神社でした。 『葉隠』に山本常朝は「佐賀藩の家老の安芸守(鍋島茂賢)が若い頃、天神の森で鳩を撃ち、それが外れたので腹を立て、当たらなかったのは天神の仕業である。憎き天神である。と二つの弾を込め宝殿を裏表に射抜いて帰り、このことを直茂に伝えた。これを聞いた直茂は「おそれおおいことを」と、即、水で身を浄め裃を着け参詣され、「ただ今、そそっかしさから過ちをおかした者、もってのほかであり、お怒りのこと、迷惑かけたと存じます。彼は、かねてからそそっかしい者で、何とぞお許しください。お詫びに参りました。」と地に平伏して、高い声でことわられた。」と鹿子天満宮での出来事を述べています。このことからも藩祖はじめ歴代藩主が崇敬したことがわかります。共に直茂の部下への思いやりと責任感が感じられます。
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龍造寺隆信と鹿子天満宮
天文20年(1551)豊後の大友義鎮(宗麟)並びに佐賀隣郷の豪族等と少貳家再興を企図して、佐賀城を襲撃しようとするのを知り、隆信は大勢の不利なことを悟り、一時筑後柳川の一木村に避けた。鍋島清房等もこれに従って行った。 天文21年隆信は旧領回復をはかったが、失敗した。 天文22年隆信は早田次郎左衛門等を使者として与賀郷鹿子天満宮に参って、鹿子の古賀民部の尽力によって、久米、徳久、村岡、末次、飯盛の5人の郷長と隆信帰国の事を密談し協力を得、隆信は鹿江兼明の船で7月25日に一ツ木を出発した。千歳川(筑後川)を渡り、漁夫園田次郎兵衛の水先案内で、川副郷南端の鹿江崎に上陸し、肥前侍の鹿ノ江、石井、南里、古賀等の出迎えを受け、乾堂(犬井道)へ。27日に鹿江の威徳寺に入り旗揚げをなした。 福地長門守は、与賀郷(本庄八田)船津に上陸し村岡藤七兵衛宅に、副島以下の郷長を始め数千人が集まった。 高木、八戸氏等の家臣が、海岸警護のために駐屯する。与賀郷の飯盛館(高取の内鹿子の塁とも言う)を攻めることにして鹿子龍昌院に陣し、急襲して勝利を収めた。 隆信は南里、八田口から押し進み、高木鑑房、八戸宗暘等が立籠っていた十五堀の要塞を一蹴して佐賀城に入り、更に同天文22年10月16日小田政光を蓮池城に攻めた。 時に鍋島直茂16歳の初陣であった。
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菅原天満宮(龍昌寺の天神)
祭神は菅原道真、倉稲魂神で創始年代は詳かでない。 龍造寺、鍋島歴代藩主の崇敬が厚かった。 明治40年(1907)の宮寄せの法令により東与賀村実久村にあった鍛冶屋天満宮を寄せ宮した。そのとき石燈籠(慶応元年施主鍛冶屋村、北御門治平外13名)唐獅子系狛犬(天保12年寄進、潮音寺伊勢次外45名)等を境内に移転している。
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上飯盛天満宮
本庄千本松(東寺小路鍋島直茂誕生地)と相対し、飯盛千本松と呼ばれる場所に、飯盛天満宮がある。祭神は菅原道真公である。この飯盛千本松は、鍋島直茂の室、陽泰院の誕生地で、寛文9年(1669)9月18日鍋島光茂(2代藩主)が、飯盛天満宮に御供料として高米3石4斗7升5合の寄進をなし、本庄千本松と同様に年々祭事を催してきたが、維新以来廃絶した。