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[神社仏閣][神社][巨勢校区]は4件登録されています。
神社仏閣 神社 巨勢校区
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小児(しょうに)天満宮
この祠は立川阿波守が鎌倉よりこの地に下向の折に建てられたと言われており、以前は至誠会病院の東隣にあったのをここに移されたそうです。 この祠は初め小児(おに)天神と呼んでいたが、いかめしくて差し障りが多かったので小児(しょうに)天神と改めたといわれています。この天神は、麻疹、疱瘡から守るといわれ、これらの病気流行の時は参詣者が多かったそうです。
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巨勢神社
佐賀県史編纂資料『巨勢神社由緒記』に次の記載がある。 肥前州巨勢荘鎮守巨勢大明神は人皇37代孝徳天皇の御宇異族壱岐、対馬の二島を犯すに依り巨勢大連征伐の勅を蒙り下向せり。御退治の後猶西津守護となり慢々たる広野を開き此所に跡を垂れ給うにより巨勢の荘と号し、宗廟巨勢大明神と崇め奉る(下略) 巨勢神社所蔵の『巨勢神社由緒記』、佐賀県神職会発行の『佐賀県神社誌要』にも同意のことが記されている。 『旧藩主各神社調』巻末記載によれば 鎮西肥前州巨勢庄鎮守宗廟巨勢老松大明神、本地不動明王なり。鎮守の由来を尋ね奉るに源頼朝公諸国の地頭職を兼ね給いし後、後鳥羽院の御宇建久5年武蔵国7党の内児玉党の宗子にて参河守俊治筑紫肥陽の地を領して、此の地に下向あり。(中略)故国の氏神老松大明神を瓦町に勧請し、五百余町の宗廟と仰ぎ、あわせて淀姫大明神・乙宮の二社を崇め、二社の本地観音菩薩・毘沙門天の二尊像を一堂に安置し奉らる。(中略)その後花園天皇の御宇延慶年中立川阿波守・同舎弟伊豆守・嫡男讃岐守・次男若狭守・鎌倉今泉村より当国に下向あり…とある。 天保10年円満院より実相院への書状の中には、 当社の宗廟と申し奉るは大化元年異国より大軍九州へ寄せ来り候節巨勢大連朝臣といいし人討鎮として勅命を蒙り此地に下向ありて不日に討鎮給い永く此地に留り神と跡を垂れ給う。只今の宝殿は即ち朝臣垂迹の所に付、白雉年中巨勢大明神当庄の崇廟と奉仰、また此地を巨勢の里となす。その後、参河守俊治といいし人肥陽の地を領し、此地に下向ありてその生国武蔵国の氏神老松大明神と、当国一の宮・淀姫杜・乙宮の三社を宗廟巨勢大明神の宝殿に新に勧請して四社の明神と尊崇し千余町の宗廟と奉仰せり、とある。 『円満院由来記』には 当庄に宗廟神崇に成りし事は白雉年間より、およそ五百四十余年後に、参河守俊治といいし人肥陽の地を領し、建久5年此地に下向ありて牟田という里に居城を築き、住居して故国武蔵の氏神老松大明神を瓦町宗廟本社に勧請し、ならびに淀姫社・天満宮・乙宮の三社を一殿に崇めらる。故に四社の明神と奉申。また古郷巨勢野になぞらえて此地を初めて巨勢と号す。(中略)右俊治の家はおよそ百十余年を経て絶えけるにや、後に相州鎌倉より立川阿波守といいし人、一族4人延慶年中此地に下向ありて、館を築き今泉と号せられ、瓦町の四社は巨勢の崇廟たるにより、今泉(巨勢川西岸一帯の総称)の中四本松一の角に遷されたり…とある。 創建の由来および祭神については前述のように一定していないが、祭神は巨勢大連・老松大明神・淀姫命・乙姫命、さらに菅原道真などを合祀されたものと考えられる。 このように変遷をしているが参河守の一族、立川氏の与党に尊崇され、巨勢郷唯一の鎮守神であったことは否定し難い事実といえよう。 境内に松尾神社・三輪神社・稲荷神社の三社がある。
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修理田神社(熊野権現)
権現堂部落(東分下)の東端に熊野権現があり土地の人は権現さんという。祭神は伊弉諾尊、伊弉冊尊、素盞鳴尊という。 古びた石門の刻字は、慶応3年(1867)のものである。(原文は漢文体) 熊野権現は神也。例(ためし)には大明神と称すべし。権現と称するは蓋し釈氏の加うる所なり。中世以還流俗相沿い更に之を知るなし。高平郷の東に一曲地あり。居民二十余家能く力田す。(中略)その地松林に接す。老樹植り森は小山の如し。故に千本山と号す。山中に小祠あり、熊野の神を奉安して歳時これを祀る。因りて亦その曲を名づけて権現堂という。(以下略) また、田原磐門などの由緒提出書によれば天正7年(1579)田原伊勢守尚明が千本松と申す所に熊野権現社を勧請したものとあるから、千本松の森も400年前からあって、権現堂という名も熊野権現にちなんだものと考えられる。 古老の話によれば、千本松は千本山ともいわれ、明治初年までは広さ6反歩に及ぶ大薮で、松、樟など生い茂って、昼なお暗く大人でも淋しがる程だった。その林の中に権現社が鎮座していて、この千本山の周辺は野狐や蛇がたくさんいたと言う。明治20年に開墾されて現在の姿になり開墾された水田4反は村の共有として、神社費、部落費にあてられたが現在は個人有となっている。当時の開墾記念碑が現在境内にある。
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保喰神社
保喰神社は赤い鳥居が示すように稲荷社と同じである。明治の記録には稲荷社となっている。記録では境内は42坪氏子224人と記されている。 神社入り口の鳥居には「肥前州佐嘉郡東西村高平山 蔵福坊良政貞亮四年」と刻まれている。これは明治初めまで蔵福坊隣りの権現社のものだそうである。 明治初めまで蔵福坊に田原盤門氏が住んでいて田原氏の祖先田原伊勢守尚明は、大友宗麟の家臣であったが、宗麟に諫言して怒りにふれ浪人になり龍造寺に仕え東西に領地をもらい住んだそうである。長男は修験者となり蔵福坊と称したそうである。