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[神社仏閣][神社][嘉瀬校区]は4件登録されています。
神社仏閣 神社 嘉瀬校区
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自得庵と若宮さん
この野田は江戸時代、久保田領主村田氏の領地であった。森家は、村田氏より百石拝領で、野田に移住し、武術の師範を勤めた。後では銃術の小銃部に取り組んでいる。百石は十町の耕地。野田村の野田氏が千葉家の戦乱に巻き込まれ、討ち死にす。野田に、ポツンとやってきた森家は、先祖の菩提寺として、自得庵をなす。水害にも火災にもあっているので、資料は十分残っていない。ただ門前に石造りの六地蔵さんがある。千葉家の戦乱で討ち死にした人の供養塔である。また、武術の神として、若宮さんも祀っていた。久保田の町東に、若宮さんはある。今の嘉瀬川が、昔は、松永の家の前にあった。堤防がない状態だったと思えば若宮さんが町東に流れていったことがわかる。お寺の自得庵は、大水害後再建したが、若宮さんは、金がなく、そのまま置きっ放し、地元の人に祀ってもらっている。若宮さんの天井の絵馬に、父や叔父たちの名前が見られる。せっかく流れてきんさった若宮さんとして、地元の方々から可愛がってもらっている。
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四面神社
諌早神・温泉神・支々岐神・千々岩神の四柱の神を主神とし、天照皇大神他三十社の分霊が合祀されている。創始の年代は不詳だが平胤貞(たねさだ)が建久3年(1192)に再建したとの記録がある。国道207号線の旧道沿いの一の鳥居は鍋島二代藩主、光茂と鍋島藩5名の家老の寄進で、二の鳥居は寛永11年鍋島初代藩主勝茂の寄進によるものである。また明治維新まで鍋島家より祭費として毎年米五石が寄進されており、海の守護神として尊崇されていた。神殿の建築様式や、大規模な参道からみて、嘉瀬津が佐嘉地方の海上交通の要港として栄えていたことがうかがえる。 祭典は、3月5日の祈年祭、10月10日の例祭(おくんち)、12月5日の秋祭、1月1日の元旦祭と、月2回の月次祭である。 神社の境内にある佐田神社は、熱病の神様として知られ、豆腐を供えて祈願すれば効験著しいというので古くから参詣者が多かった。その創始は詳らかでないが、口碑によれば俊寛僧都が嘉瀬に隠棲中に建立したとも言われている。昔からこの神様は疱瘡の神様として崇敬されていたが、その由来するところは判明しない。四面神社は明治6年10月村社に列せられた。
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乙護神社
創立は不詳だが、平胤貞が建久3(1192)年に再建したとの記録がある。また建武3年(1336)に再々建されたとの記録もある。祭神は、多紀津姫命、多紀理姫命、市杵島姫命他五柱で、文禄2年龍造寺周家によって再建され、明治8年(1875)8月に村社に列せられた。今なお、生産の神様としてあがめられている。
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八幡神社
神体は八幡大菩薩で応神天皇が主神で、仲哀天皇、神功皇后を祭神として祀ってある。弓矢の神として信仰あつく、安元元年(1175)地頭の徳善太郎平益信が鶴岡八幡の分霊を勧請、建久六年(1195)祭殿を建立し、のちに鍋島平右衛門清久(直茂の祖父)の保護をうける。鍋島氏に由緒ある社であったので直茂の代となり祭祀を興し、寛永2年(1625)社殿が造営された。明治六年、村社に列せられた。