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[神社仏閣][神社][神野校区]は2件登録されています。
神社仏閣 神社 神野校区
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掘江神社
神野大明神ともいう。 【祭神】 祭神は、景行天皇・神功皇后が主祭神で、他に後宇多帝が蒙古退治を祈願されたとき勧受請された風浪権現(住吉三神)などもあわせまつってある。社伝によれば、景行天皇の皇子小碓尊(おうすのみこと後に日本武尊)が熊襲征伐の時、肥前小津の入江にご碇泊、新たに小江を掘った所に竜造船をつなぎ、その中で熊襲征伐の軍議をはかり、この小江を掘ったところに神社を祀り、「神野の掘江大明神」と称えたという。現在の社殿は明治26年9月に改修とある。 祭礼日 3月14日 祈年祭 7月15日 夏祭大祓い 11月3日 秋季例大祭 供日 12月14日 新嘗祭 【神社の形式】 鳥居をくぐると石橋、石橋を渡ると門、その先に拝殿・神殿(本殿)と直線上に並んでいる。 この神社の配置形式は、与賀神社、本庄神社、八幡神社、蛎久天満宮等、各地に散見され、発生の時期は明確ではないが、江戸時代初頭における県内の神社配置様式と考えられる。 【思い出】 『神野小学校百周年記念誌』によれば、当時、掘江神社の参道には松並木があった。掘江神社の古い写真を見ると、本殿の右側(東側)に1本大きい松が見えるが、松並木の松は、このような大きい松であった。 今の参道入口の鳥居は、もとは現在地より少し北にあった。学校の前の道ができ上がったのは大正14年(1925)であるが、その前はどうなっていたかというと、長堀橋を渡って、田中化粧品店の前から店の北側へ通ずる細い狭い道があるが、これが浮留江橋へまっすぐにのびており、その道の南側はたんぼで、北側が今のように運動場であった。今の広い道が、長堀橋から浮留江橋へできたので、古い道と新しい道との間も運動場になった。鳥居は、参道と田中化粧品店北側の狭い道との交差点のすぐ北あたりにあった。
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鏑流神社
三溝の氏神様であり、また守護神様でもある。鏑流さん、または藪神様と呼ばれている。文武両道、五穀豊穣の神といわれ、掘江神社に合祀されていたこともあるという。お祭は8月7日。鳥居には「鏑流社」とあり、「寛政9年(1797)11月宮司覚明坊建立」と彫られている。社の所在地は元神屋敷といい、3回移転されて現在地に鎮座され、明治維新前は山伏の祈祷所、祈願所であったという。また、地領主の勧請の神社でもあったらしい。掘江神社の松中宮司によると、祭神は流鏑馬の神とのこと。鏑流神社の「鏑流」は、流鏑(馬)ともいうが、その逆字流鏑馬がなまったとか。ご神体は、腐蝕しかかった神馬上に跨り、矢を持ち巻狩のいでたちのような勇壮な姿をしている。流鏑馬とは、騎射の一種で、馬上でやつぎばやに射る練習として馳せながら鏑矢で的を射る射技。笠懸、犬追物の姉妹競技で、平安末期から鎌倉時代に武士の間に盛んに行われた。 佐賀県内の神社で今流鏑馬行事が行われているのは、稲佐神社、武雄神社、黒髪神社の3社ということであるが、三溝に伝説であっても流鏑馬につながる鏑流神社があることは、郷土の誇りである。