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[神社仏閣][寺][久保泉校区]は3件登録されています。
神社仏閣 寺 久保泉校区
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妙福寺
臨済宗、東福寺派で開山は円鑑禅師の高弟、大道一以大和尚である。本寺の大日尊縁由略記によると本尊の大日如来は承徳2年(1098)に流失した石城山妙楽寺のものと推定され川底から発見されたこの仏像は「疱瘡の神」として近在、近郷に知られている。 この寺は神代家の分家の墓所として又中島哀浪先生の菩提寺として知られている。
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上揚の也足庵
皇位をめぐる南北朝の争いに続いて、将軍家の後継争いは、地方大名を巻き込み小豪族間の勢力争奪へと波及した。この時代を戦国時代と言う。勝つためには義理も人情も無い、嘘と欺き反逆に明け暮れ、肉身をも犠牲にし、上下の関係も薄らいだ時代である。 肥前においても、藤原系を名乗る龍造寺・太宰の少弍・関東下向の千葉氏、北の松浦・波田、西の橘・後藤・大村、島原の有馬、それに加えて豊後の大友、南の菊池・島津、中国の大内、それ等をめぐる馬場・八戸・高木、蓮池の小田、神埼の本居・姉川、城原の江上、山内の神代の諸豪族間にも攻防斗争が続いた。 隆信の曾祖父剛忠家兼が92才の天文14年=1545年、馬場頼周は謀を巡らし龍造寺を倒すため諸豪とはかり、城を渡し退去させ、剛忠の息子家純・家門・純家を川上淀姫社に招き、一方孫の六郎周家・三郎家泰・孫八郎頼純を城原勢福寺城へ誘い出した。各れも僅かな郎従を取囲んで急襲し全滅さした。正月23日のことである。 このときの先鋒が、34才の神代勝利であった。これ以後神代と龍造寺は矛を交えること8回、4回は勝ったが4回は負け、最後は大友勢と共に今山で鍋島の夜襲を受け、惨敗した。 さきの城原へ出向いた隆信の父周家等3人と郎従は、西郷の祗園原で討死し、ここ也足庵に葬られたが、明治4年本庄の高伝寺に合祀された。也足庵には小さな墓標が残されている。当時の也足庵の僧は、龍造寺の血統の者であった。 也足庵は戦国中期の創建で、付近には玉泉坊を始め多くの寺社があった。現在は臨済禅寺で、南北朝期に数名の筆になった大般若経500余巻が写本として保存される。また脇仏には龍造寺家再建を祈願し、天文17年=1548作の木造達磨像があることでも有名である。
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松陰寺
神代1万石の菩提寺松陰寺は、西原天神山東の竹林に囲まれているが、もとは鈴隈南麓お霊屋下に在った。『太宰管内志』によれば、この辺に太郎丸(泰郎丸の誤りか)という所があってそこに行基菩薩(?)が作ったという薬師尊像があった。松陰大姉(鍋島勝茂の娘で、神代5代邑主常利の妻。性空院のこと)は先祖菩提のため仏殿を建立し医王山松陰寺と号した。本尊は唐佛の釈迦とその弟子の三尊云云とある。