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[神社仏閣][寺][本庄校区]は21件登録されています。
神社仏閣 寺 本庄校区
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鹿子の寺院今昔
昔から鹿の子の7か寺、七天神と言い伝えられて来たが、天明年間の絵図によると、鹿子上区に慶誾寺、福林寺、明徳院、高林寺、鹿子下区に松林庵、清龍庵、高岳院、龍昌寺、善長寺の9か寺が記されている。 昭和17年の各寺院規則認可申請によると現在と同じ、慶誾寺、福林寺の2か寺となり、「廃止佛堂跡届」が慶誾寺住職関久銀峰師より、当時の本庄村村長西原操氏に提出されたのを参考のため記す。 「字鹿子上下区佛堂跡御届」 佐賀県佐賀郡本庄村慶誾寺末寺 鹿子上区 高林寺 上記は福岡県下幸袋町に正式移転後墓地丈存在す。 鹿子下区 善長寺 上記は再建不能に依り内容は慶誾寺に併合するも表面は寺号存在す。 鹿子下区 幸岳院 上記の檀徒は慶誾寺に合し墓地丈存在す。 鹿子下区 周椿菴 上記は名のみにして家敷丈存在す。 鹿子下区 隆生寺 上記の檀徒は慶誾寺に合し墓地丈存在す。 鹿子下区 清流菴 上記の壇徒は慶誾寺に合し墓地と家屋敷とを存在す。 同御届申候也 佐賀郡本庄村大字鹿子27番地 昭和17年12月29日 慶誾寺 住職 関久 銀峰 本庄村長 西原 操 殿
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上飯盛の寺院
「飯盛七か寺」と言って石井家後代の石井七兄弟が1か寺ずつ開基したので寺が多い。天明年間の絵図によると法陽寺、法伝寺、本能寺、地福寺、光日寺、正福寺、善重寺、光明庵、明王院と、現在残っている常照院、淨円寺、妙玉寺が記載されている。 以上の12か寺の宗派は、日蓮宗である。日蓮宗は、肥前の地においては、小城を中心に、源頼朝の宿臣千葉常胤の裔千葉氏及びその一族宿臣等によって、地盤をつくった。上飯盛の寺院もその関係である。 ※写真は淨円寺。
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梅林寺(庵)
梅林寺は曹洞宗で不動明王を本尊とし、高傳寺の末寺で第5世泰応和尚の建立である。 梅林寺は天正年中(1573〜1591)鍋島直茂公が御開基建立す。御本尊は不動明王で秘仏(開帳のときしか拝ませない仏像)である。寺領4石8斗6升9合御寄附になり、正徳2年(1712)9月14日為理性院様(俗名、伊勢峯様)菩提寺とす。 吉茂公より寺領米5石1斗3合1勺御寄附になり、寺領米は合わせて10石御印がある。
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高傳寺
高傳寺は慧日山と号し、曹洞宗で天文21年(1552)鍋島駿河守清房公の建立になるものである。これは清房公(直茂公の父)の父君平右衛門清久公が毎月朔日丑の刻に本荘の宮に参詣されていたが、ある日本荘明神が出現し給い「嫡子清房を以て本願主となし、高傳寺の勝地を禅宗と改め、薬師仏三尊(往代薬師如来の脇侍、観音菩薩、勢至菩薩であったが、普通薬師仏の脇侍は日光菩薩、月光菩薩でこれを三尊仏と言う)を崇めよ、しからば、我鎮護の神となって汝の子孫を守らん」と仰せられたのである。薬師三尊の外に金仏の釈迦如来も安置されている。奥には初代勝茂公の建立による釈迦堂がある。承応年中(1652頃)大明国より赤栴檀(印度に産する香気の強い木)の霊木が長崎の津に渡って来た事を聞かれ、これを手に入れ、釈迦三尊(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)を洛陽(京都の異称)の大仏師に作らせた。開帳供養導師は当時10代の住持鶚峯桂雲和尚が行った。有名な湛然和尚も都より下ってこの寺に住んだ。 山門及び本堂は明治34年(1901)に改築されたものである。 山門に掲げられた扁額「慧日山」の彫刻の書は即非禅師の筆で特に目につく。また、本堂入口直上の彫刻の扁額「高傳寺」は、黄檗の僧、独立禅師の筆で古書を愛する人の目にとまるものである。
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高傳寺開山堂
寺で最古の建物。堂内中央に2代藩主鍋島光茂の持仏であった七体観世音菩薩を祀り、その右に道元禪師、左に開山の玲巌和尚の彩色木像が祀られている。また、歴代住職の位牌のほか戦国時代からの戦ごとの戦死者の合同位牌、殉死者の位牌も祀られている。 江副金兵衛が刻んだ自像も安置されている。
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善應庵
曹洞宗で本尊は観世音菩薩で高傳寺の末寺である。 善應庵は光茂公が、左内様(光茂公の子6歳で早世)のお部屋をそっくり移され、お子様の菩提を弔うために、寺として建立され、寺号を移されたものと言われる。 延宝7年(1679)12月10日寺号の移しを仰せつけられ、円通院様(左内様)のお部屋を客殿に建てられた。元禄2年(1689)9月16日円通院様ご開基に仰せつけられ、寺領給米12石をご寄進のご印を差し出された。 元禄2年(1689)9月26日に本丸の持仏堂(仏間)を善應庵に移し、早世のお子様方の位牌を祀った。ご持仏堂は円明院様(お金、光茂公の娘8歳)のお部屋であった。天和2年(1682)7月23日よりそのお子様方の追善のために、法華経1万部を17か年後成就いたすようにと仰せつけられ、元禄11年(1698)結願、法会が終わって善應庵に万部塔が建てられた。
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本荘院
天台宗で、本尊は慈恵大師で、境内仏堂観音堂に、十一面観世音菩薩を安置す。 本寺は、京都市東山区粟田口の青蓮院である。宝物として、慈恵大師画像掛軸一幅で慈恵大師鏡影自筆で日本三幅の内の一幅である。鍋島家の祈願寺院として、鍋島勝茂(初代)が再建し、昭和初年までは本堂は瓦葺平屋63坪の広大な建物であった。 4代吉茂の代に方除で有名な、元三大師御自筆の尊像を勧請して祈願されたところ、その霊験あらたかなるをもって、佐賀藩内の方除祈願所(方除のお守、移転旅行、造作土木工事等)として、お守授与の特権を与えられたのである。
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東光寺
曹洞宗、瑠璃山東光寺は鍋島清房(直茂の父)が、本庄村の千本松の館に在住の際、薬師如来及び、日月両天子の十二神を安置した観音堂を建立して、高傳寺の亀雲厖鑑和尚を招いて開山とし、毎年年始に参詣、祈祷祭を執行した。以来直茂、勝茂、忠直、光茂、綱茂の各藩主の崇敬が厚く、直茂の時代に新たに、薬師堂及び厨子1基を建造した。 元和3年(1617)に至り、天林院(直茂の息女)、福壽院(多久長門守室)、長壽院(諫早石見守室)によって堂宇の改築をなし、前に直茂が造営した薬師の棟札は厨子の中に納め、以来秘仏として、今日まで伝わり、これを開帳したことがないと言う。 しかし改築された堂宇も、その後年を経て敗頽するに至り、宝永4年(1707)初めて仏殿に改修される(この時より東光寺と改称される)。当時の住職は第11世玄栄和尚を中興の開山とした。かくして文久年中(1861~1863)寺務の隆昌に伴い、堂宇が狭小になり、境内の拡張と本堂庫裏の改築をした。 東光寺には鍋島平左衛門(清久、利叟、直茂の祖父)が歳暮、年始には御祈祷を頼まれていたと『葉隠』に述べられている。
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観音寺
本庄小学校の南に大内旗山観音寺が建っている。本尊は行基の作と伝えられる如意輪観世音菩薩であり、宗龍寺(水ヶ江)の末寺である。 本尊は子安観音とも言い、遠くから多くの人が願かけに参り、そのとき魚や鳥獣を買い取って、命を助けて逃がしてやると、願いが成就すると言われている。 「観音寺物語」 観音寺は昔正里村にあったと伝えられる説もある。時に大宰少貳と中国の大内氏と戦を交える。(應永年間(1394〜)に始まる)龍造寺家氏公は少貳氏に従い、大内氏を討った。大内盛見(徳雄)はその頃上飯盛の飯盛城に住んでいた。 その時代に正里の西端に観音堂があり、その霊験著しく徳雄はこれを深く信仰し、仏前に旗を奉納した。よって村人はこれを大内旗観音と称した。 その後争乱は止まず無住となったが、元和年中(1615〜)に開運和尚が現在の場所に移した。 なお当寺には大内氏に関する遺物が多く、戦国争乱の状況が偲ばれたと伝えられる。
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瑞應寺
瑞應寺は臨済宗で、本尊は薬師如来である。本寺は、大本山が南禅寺(京都左京区)で、小本寺は萬壽寺(佐賀市川上)である。 開山は悦翁喜禅師{文明2年(1470)10月5日示寂} 開基は龍造寺家氏公 法号 瑞應寺殿譽幸公大禅定門 延譽妙幸大禅定尼
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龍造寺家ゆかりの瑞應寺
龍造寺家は、文治2年(1186)龍造寺村(今の城内から本庄町北部一帯)を本領に、地頭となった季家が始めです。その320年後の永正2年(1505)子孫の康家が本家を二男家員に授けて、水ヶ江に別館を造り隠居しました。これを六子の家兼が譲り受け、水ヶ江城として拡張整備しています。これが水ヶ江龍造寺家、水ヶ江城の始まりです。康家の父で、家兼の祖父が龍造寺家氏です。家氏は、瑞應寺の開基で家氏の法名瑞応が寺名となっています。龍造寺家と縁深く、歴史のある寺です。 境内の東に王子権現を祀る社殿があります。景行天皇の皇子日本武尊(オウスノミコト)が北部九州地方をおびやかしていた熊襲征伐の伝説は有名です。この伝説で、皇子は川上に逃げた熊襲征討を企て、有明海から龍造船で大井樋付近の島に着船しています。ここを龍造島と呼んでいます。後に皇子に因縁深いこの地に皇子を祀る祀堂王子宮を設けました。今は、王子権現として瑞應寺にあります。
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光明院
西八田の光明院は「玄清法流」の流れをくむもので、天台宗に属し、大きな組織があって、さらにその上は福岡市の成就院に統轄されている。玄清法流には、「仏説地神陀羅尼経読誦盲僧為天台宗因縁」なる1巻を伝えている。 現在荒神琵琶の弾ける人は数少ないという。
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持光寺
持光寺は天台宗で、本尊は千手観世音菩薩で滋賀県の延暦寺の末寺で、竹林山金乗院持光寺と言う。開山は辨空上人により正平7年(1352)の建立開基である。 太閤秀吉が朝鮮侵攻のため名護屋に在陣の際戦勝祈願をなしたこともあり、龍造寺氏、鍋島氏代々の祈祷寺である。 天明年間の絵図によれば末次区内の抱宮も多く、現在は境内に寄宮され神仏習合の昔を偲ばれる。 抱宮下記の通り 養父社(矢房社)二か所 農地壱畝地米壱斗七合 若宮八幡 一か所 農地五歩 地米壱升二合 阿弥陀堂 破壊地 農地五歩 地米壱升二合 薬師堂 一か所 天満宮 二か所 農地三畝二歩 地米壱斗七升 農地貳畝 地米壱斗四升 祇園社 一か所 農地五歩 地米壱升貳合 以上の通り 六地蔵六観音 天正13年(1585) 銘文:(梵字)不空成就 (梵字)勢至 (梵字)地蔵 (梵字)観音 奉造立地蔵 三界廿五有々、緑光緑春道会 道円 干時天正十三酉乙十一月八日
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安養寺
安養寺は曹洞宗で、本尊は聖観音菩薩であり慶誾寺の末寺で山号は淨地山という。 寛永年間に慶誾寺の4世、禅室栄林和尚が「隠居寺」としてここ本庄町中島に開基した。開基が江戸中期に入ってからだけに住職の世代も現住職富沢正信氏で第4世と浅い。 天明年間(1781〜1788)にはほかに高蓮寺(高林寺)、圓税寺(圓照寺)、大名庵の3か寺があった。
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西光寺
開山は相蓮増慶上人と伝えられる。上人は永享7年(1435)3月20日に没し、これ以前の開基と考えられ、600年位前の開基と推測する。本尊は、阿弥陀如来で両脇に観音菩薩、勢至菩薩及び高祖・善導大師、宗祖・圓光大師の像が安置されている。 過去帳に文久元年(1861)、火災で全て焼失と記されている。その後藁葺きで本堂が再建された。これが老朽化したので昭和57年(1982)9月新築の本堂が完工した。 前本堂棟木に墨書があった。 第二十一世 仁海上人代 世話人 鬼崎 弥助 内田 浅右衛門 牟田口 利八 古賀 卯右衛門 高柳 伊兵衛 石橋 文助 大 工 末崎 伊平次 造之 本堂の鐘に、 寛保4年(1744)正月 下院肥前国佐嘉郡愛敬島村 安性山国相寺 の刻銘がある。
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慶誾寺
慶誾寺は曹洞宗で本尊は釈迦如来である。当寺はもと鍛冶屋村(東与賀町)にあって広厳山流長院と称していたのを、慶長3年(1598)慶誾尼によって現在地に移し、同5年3月慶誾尼が没したので、ここに葬り、般若山慶誾寺と改めた。 本寺には折本装の白地金字金剛般若波羅密多経が伝えられている。本経には見返し絵はないが、高麗時代至正27年(1367)の奥書があり、また李氏朝鮮と交渉のあった大内傘下の山口県長門市深川湯本にある曹洞宗瑞雲山大寧護国禅寺から、現在の慶誾寺に寄進されたとの銘文を有し、大変貴重な資料である。 慶誾尼は龍造寺隆信の母で、のち鍋島直茂の父清房に再嫁し、龍造寺、鍋島両家の間にあって強い発言力をもっていた。 当寺には維新前までは寺領80石の慶誾寺領があった。 天明年間の絵図によると、参道は南西の与賀里道より、両側に松並木が広麗な山門まで続いている。門前には下馬の制札が建っていた。(鹿子下の下馬の地蔵は、今も与賀里道の路傍にある。) 明治初年頃の排仏毀釈の折に、慶誾寺の表門は龍泰寺に移し、表門に安置されていた十六羅漢(木造)は東与賀町上古賀の栄蔵寺へ、また裏門は東与賀町飯盛の悟真寺へ、五百羅漢は北川副町の岩松軒へ移動した。 なお、慶誾尼の生前墓である逆修墓は高傳寺にあり、埋葬されている墓は慶誾寺にある。
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福林寺
山号は「心月山」。福林寺2世監翁菊公和尚{天文元年(1532)没}からの記録しかないため創建の時期は不詳。もともと天台宗で村岡一族の祈祷寺だったと推測される。 村岡家(村岡イソノ・東与賀町実久)所蔵の『村岡略系図』、『村岡家縁起絵巻』によると寺の側に村岡天満宮の存在と、この宮の座主を福林寺の和尚が務めていることが確認できる。もと相州鎌倉村岡郷の住人村岡氏が今川了俊に属し、鹿子村に住し与賀郷5人の郷長(むらおさ)の頭であった。龍造寺隆信らが一時期佐賀城を明け渡し、筑後に身を寄せていたが、天文22年(1553)、佐賀城奪還に際し、村岡はじめ郷長(むらおさ)たちが隆信らの無事帰還策の相談を村岡天満宮で行っている。これに福林寺3世・舊白壽光和尚{天正7年(1579)没}も参画、また、安全祈願を施すなど大きく寄与している。龍造寺隆信は、無事奪還に成功、これに対し村岡氏に恩賞を与えている。 龍造寺の家臣となった村岡十郎左衛門(小城・村岡の祖)は、島原沖田畷の戦い(1584)で隆信と共に戦死している。 天正末から慶長初め頃に慶誾寺3世文応全藝{慶長7年(1602)没}が当寺に入り開山となって曹洞宗慶誾寺の末寺とした。 平成9年に本堂を改修し、昔の面影は薄れた。唯一、須弥壇丸柱に取りつけてある獅子鼻の彫刻一対と、本堂上り口に吊るされた天明3年(1842)刻銘の鰐口が昔のまま残っている。 境内に享保2年(1717)の造立銘の単独地蔵(石工・富永正左衛門)と享保7年(1722)造立の六地蔵が祀られている。今も祈祷寺としてのイメージは消えず、近郷の妊婦が安産祈願に訪れている。
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常照院
当山は妙光山本善寺と称し、永享元年(1429)9月九州探題(幕府から地方に派遣された、政務、訴訟、軍事をつかさどる地方長官)の千葉胤継の副将である兵部大輔石井越後守忠国(藤原鎌足より23代目)が開山に京都大本山本國寺門流本立院日字上人を迎え創立した。 元亀元年(1570)忠国より5代の孫、兵部少輔石井常延(鍋島藩祖直茂の妻陽泰院殿の父)は、石井家の城邸を移転してその跡に、大伽藍を建立した。天正8年(1580)12月5日常延が没した。法号は、常照院殿常祝日教大神祗と称し、元和7年(1621)法号を取り、常照院と改称した。 以来明治維新廃藩置県に至るまで、鍋島家の祈願所並びに准菩提寺として寺録62石5斗を給わり、永世修復造営の恩恵を受けた。 現在の堂は、明治44年の春に竣工した。また大正4年(1915)に御大典記念として、一切経蔵並びに附属品図書館を建立した。 当院には、紺紙金泥(紺色に染めた紙に金泥で仏画を書いたもの)の光明皇后御筆玄梁院殿の出山釈迦絵像・人丸・須磨明石の、三幅一対の軸物その他宝物、什器等非常に多かったが、数度の火災にあい、焼失したものもあり、陽泰院殿の色紙短冊その他の宝物が、今なお多く残っている。
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常照院と藩祖の妻・陽泰院
常照院は、もとは本善院と言い、永享元年(1429)に、戦国時代小城、佐賀地方に勢力を有した千葉一族の石井忠国が開いた寺です。天正8年(1580)に忠国の子孫で藩祖鍋島直茂の妻陽泰院の実父石井常延の死去に際して、一時移されていた寺を元の石井家の屋敷(現在地)に戻しました。 元和元年(1615)に藩祖鍋島直茂が再興して鍋島家の祈願所としています。元和7年(1621)に、常延の法名常照院常祝日教から寺名が常照院となりました。常延の娘は、夫が戦死したので実家に戻り、父の屋敷に住んでいました。ある時鍋島直茂ら龍造寺軍が出陣の折、昼食に常延の屋敷に立ち寄りました。この時直茂は、常延の娘の働きぶりに感心し、好意を抱き続けていました。それから二人は結ばれることになりました。陽泰院と呼び、温順な人柄で直茂の妻として頼りになる協力者でした。 また、境内に2代藩主鍋島光茂の時の御歌書役を務めた石井如自の墓塔があります。若くして歌道、俳諧をたしなんだ文化人でした。
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妙玉寺
妙玉寺は日蓮宗である。石井忠繁の孫忠次の嫡子忠修が永禄6年(1563)6月22日、22歳で三根郡中野で戦死したが、妻子がなかったので、直茂公は子孫の絶えることを惜しんで、嫡男石井常忠(陽泰院の兄)の三男新五右衛門常永を後嗣とし、かつ淨円寺の祖徒として祭祀をなさせた。そして、その墓地に一寺を建立して「妙玉寺」と名づけ、当時高木瀬町本通寺の住職であった大教坊日連を迎え開山した。門坊は蓮池の城門を移した堂々たるものであったらしい。 後、姻戚深堀家の菩提寺となった。
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佐賀藩家老の菩提寺妙玉寺
妙玉寺は、佐賀藩の家老格で仕えた鍋島茂里の鍋島主水家と鍋島茂賢の深堀鍋島家の菩提寺です。茂里は、一時期藩祖鍋島直茂の養子となりましたが、後、神埼に土地を与えられ一家を起こしています。慶長15年(1610)42歳で亡くなりました。茂賢は、茂里の弟で長崎の深堀鍋島家の養子となり同家を継ぎ正保2年(1645)亡くなりました。両人共龍造寺、鍋島に従い武功を重ねた重臣でした。境内に墓塔があります。 また、殉死者が葬られていることでも有名です。佐賀藩では、仕えた主人が亡くなると、それに殉じて追い腹(殉死)を切る家来が多かったと言われています。境内東に茂賢夫妻を中央に両側に茂賢に殉死した藩士達22人の墓塔が並んでいます。この22人は、茂賢指揮下で戦った柳川合戦の時共に討ち死にを約した間柄でした。その45年後に茂賢が病死すると共に追い腹を切り殉死しています。家老身分でそして病死で、家来が殉死することは大変希な出来事と言われています。