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[神社仏閣][寺][北川副校区]は10件登録されています。
神社仏閣 寺 北川副校区
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福満寺
【名称(山号)】護国長尾山福満密寺 【宗派】真言宗御室派 延暦23年(804)、伝教大師入唐に際して発願した寺と言われ、初め天台宗であったが、後に、真言宗御室派に属した。名前の由来は、長尾の鳥が、「福、福」と鳴いたことにちなんで付けられたと言う。 ご本尊は、最澄(伝教大師)が、沈香木をもって、薬師如来の木像を刻んで安置されたもので、日本七薬師像の1体であるが残念ながら火災にあって、重要文化財の指定がなされていない。 昔から、崇敬厚く、高倉院、亀山上皇、正親町院の勅願所となり、鎌倉時代になって、源頼朝、足利尊氏の当国における祈願所になり、北条時政の伽藍再興、足利直冬の山門建立、金堂補修が行なわれたが、その後、火災にあい、龍造寺、鍋島が共に再建して、寺領を与え、尊崇した。 この寺に伝わる室町末期から安土桃山期の作と推察される「紙本著色福満寺古図」には、足利直冬による補修後の七堂伽藍の配置が描かれ、境内8町1反歩、寺領計400町歩、坊官22人などの記載がある。 その境内は、東北の入口は、犬尾の疣地蔵、東は増田、南は川副町中古賀の「ヒャーランサン」、西は、南佐賀の古賀橋(ガランサンがあった所)、北西は、枝吉のバス停の所(以前、地蔵様が祀られていた)と、その広さが想像される。 毎年5月7日から15日まで、お経会(きょうえ)が行なわれ、県下から多くの参拝客が参詣に集まり、道端には出店が並んで、非常に賑やかであった。 後に、川上の実相院で始まったお経会に、参拝者が移ったりして、戦後は、昔ほどの賑合いはなく、日時も今は5月1日から5日までに変更されている。正月には、大般若さんが、第2日に行なわれている。お経会は、三界万霊の供養と参詣者の仏縁、塔婆供養も行なわれる。
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大応寺
北条時頼が西国廻国の時熊本より有明海を渡り、肥前の国に来られた。その時たまたま大風にあって、航海に非常に難儀され、海底に潜らせて石を8個拾って、八代竜王として祀られたところ、波もおだやかになり、無事に渡ることができ、海岸にあがって、その中の4個を持参し、八田江のほとりのこの地に祀って寺を起こされた。 これが現在の大応寺の発祥である。 現在もこの4個の石は観音堂に祀ってある。開基は、弁重大徳、これが時頼公と思われる。 開山は月峰和尚大禅師。 時頼公入寺以来、民心は安定し、益々寺院は繁栄し、広大な地域に七堂伽藍が完備されてその威厳は荘厳だったという。領地約50町歩、他に三養基郡に3か所、神埼郡に2か所、大牟田市付近に2か所、以上の広い寺領地を所有していた。 本尊は時頼公を祭主とし、愛宕山の勝軍菩薩(秘物)で蓮華座に坐る1尺3寸の仏像が祀られている。その後時代の変遷と共に、寺院は衰微の一途をたどり、今日では伽藍の一部を残すのみとなる。 この様に700年の長きにわたる由緒ある、大応寺であり、江上の福満寺と共に旧き歴史をひもとき、北川副町の誇りのためにも、檀信徒の皆様の、仏恩報謝と祖先に対する報恩感謝の無限の願いを念ずる思いを認識され、禅宗南禅寺派の寺院の安泰を計られたい。 また境内には、軍国比翼塚と江副次郎、美子二人の墓が建っている。
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岩松軒
【名称(山号)】黄梅山岩松軒 【宗派】曹洞宗 【開基】龍造寺隆信の実弟長信(初代多久邑主) 【本尊】聖観世音菩薩 慶長6年(1601)2月、長信64歳のとき、入道して天理元信と改称して聖観世音菩薩をこの本尊として安置した。のちに高伝寺和尚を通じて岩松軒と命名した。 慶誾寺3代文応和尚を招いて開山とし、妙郷1千部の読経を修めさせた。この寺は、長信の領内の水ヶ江の館にあって、境内には、石造の十六羅漢が安置されている。 昭和20年8月の空襲によって焼失したが、再建されて今日に至っている。
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長安寺
【宗派】曹洞宗 【本尊】薬師如来 万治元年(1658)正月、鍋島忠直公の御意志を受けつぎ、光茂公が建立され、開山萬休禅師を請招して、当寺を建立された。それから相継いで今日に至っている。 当寺には、先代より特種な祈とう(ホヤケマジナイ)秘術が受け継がれており、諸方からの参詣者も多く、小児のホヤケマジナイは特に不思議な奇効があると言われている。 境内には、マジナイ堂もあり、先代の知獄和尚は、説法にすぐれて、よく仏法の伝導をされていた。
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弘生院
【宗派】曹洞宗 当寺は、700年来の古刹(こさつ)で、建保元年(1213)、人皇84代順徳天皇の御代、和田義盛が北条義時に亡され、その一族の和田八郎義胤は、身一つで危うく九州に逃れ、その際、十一面観世音菩薩(藤原光長の作)奉持して、この地を選び、真言宗の寺を建て、補陀山弘生院と名付けた。和田家一族の菩薩を弔うため自ら出家して、大観弘生法師と名乗り、大いに観音を信仰し、一般信徒の教導に努めた。 それから500有余年の後、享保8年(1723)、人皇第114代中御門天皇の御代、徳川8代将軍吉宗の時代、佐賀郡春日村、玉林寺第9世勅持賜大龍渭川禅師を当寺の法地開山に請じて曹洞宗に改め、今日に至っている。 その間、第14世祐孫和尚のとき、ほとんど廃寺になろうとしたが、当寺の由来にちなんで33身の観音の霊場を建設するほか法華8巻の1石1字を書いて、妙典法塔を建立し、加えて、幾多の樹木を植栽して、風致を整え、最近水子地蔵菩薩を建立し、多くの信徒の信仰を集めている。 第16世道智師は、大正2年長崎医学専門学校を卒業され、エキリの特効薬を調剤され、評判になって、よく売れていた。また、祐憲師は説法伝導に励まれていた。
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本願寺
【宗派】曹洞宗 【開山】寛永5年(1628)禅宝栄林大和尚 慶長7年(1602)藩士吉田太郎衛門と桂窓妙賀禅定尼(俗名不詳)が建設したといわれ、川副郷七仏薬師如来の一つで楠材の薬師如来が御本尊として祀られている。開基家の子孫は、佐賀市高木瀬町東高木に居住の吉田氏で、本寺は佐賀市本庄町鹿の子27番地の船若山慶誾寺である。 寺号から見て曹洞宗以前は浄土真宗系の寺院ではなかったかとみられている。 ※『佐賀県近世史料第十編第二巻』p93によれば、「開山 慶誾寺四世在室大和尚 寛文五年十一月廿二日」とあり。
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阿弥陀寺
【宗派】浄土宗 【開基・開山】不明 龍造寺家臣による天正時代(1573~1591)以前の開基で、約500年前と思われる。佐賀藩初代藩主勝茂公に追腹殉死した韓国人洪浩然の墓がある。 洪浩然は藩祖直茂公が朝鮮出兵の時、慶尚南道晋州色で筆をかついで逃げる子どもを見つけ、この子はきっと文学の才があるとつれ帰った人物で、勝茂公の学友となり、側近となって800石の重職についた。 勝茂公が江戸で死んだと聞いて、菩提寺の阿弥陀寺で追腹殉死し、異国人ながら立派な葉隠武士として称讃された。昔は今宿川から舟で墓砂を揚げていたという。 東京海城学園(海軍兵学校の前身)の創始者、古賀喜三郎海軍大佐の墓もある。寺内に観音堂があり多数の信者で講会が開かれている。
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光教寺
【名称(山号)】潮信山光教寺 【宗派】真宗本願寺派 【本尊】阿弥陀如来立像 【開基】順智 【開山】天正15年(1587)光山慈観教師 13代光山慈敬教師は、明治26年京都仏教大学を卒業後、本願寺学局に務め、山口県開導教校の総監、また仏教中学校長に任ぜられる。 明治34年高輪大学の教授兼監事、4年後龍谷中学校長に就任され、北陸中学校長に転じ、大正元年福岡教区監事、同3年本願寺財務部長、同6年7月帰郷、大正2年には経蔵を建立されている。14代慈等師は、朝鮮京城の龍谷高等学校教諭、昭和19年佐賀龍谷中学校奉職、学生を可愛がり教導に力をそそがれていた。11代慈善師は勧学であったという。 宝物文化財五劫思惟如来座像、十六羅漢2幅がある。五劫惟とは、長い間思索をこらす事で悟を開かんとする姿である。
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宗専寺
【宗派】浄土真宗本願寺派 【本尊】阿弥陀如来 【創立】不明 親鸞上人を宗祖とするこの寺は、昭和20年8月の空襲で、一部の過去帳、諸記録を焼失したために、創立の年代は明らかでない。 しかし、大坂夏の陣の前年、即ち慶長19年(1614)からの過去帳によると、ほぼ360年以前の建立と考えられる。 第2世玄益のときから、今日の寺号を許されており、第11世貫簾は、18歳で遠く日田の広瀬淡窓の威宜園で学び、当寺を継承してからは、学問のかたわら、立生花を指導して、池坊華道の九州総会頭職として、広く福岡、長崎など、数百の門弟に教えていたと言う。 「逝去の会葬には、千余の会葬を得し」とあり、いかに多くの信徒の崇敬を得ておられたかをうかがい知ることができる。 その子12世貫夫師は、村の奉仕活動家として活躍され、今の幼推園の先がけとも言える託児所を創設され、農繁期中は、農家の子どもを預かって世話をされた。
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光源寺
【名称(山号)】紫金山光源寺 【宗派】浄土真宗本願寺派 【本尊】阿弥陀如来 【開基】浄勝(俗名・前田源左エ門) 【創立年代】天正12年(1584) 昭和20年8月5日の空襲で本尊の阿弥陀如来像と山門だけが残り、外は皆焼失した。門徒過去帳もなく、昭和30年5月に今の本堂、昭和49年、昭和63年に庫裡の新築が終り、今日の姿になった。 ※『佐賀県近世史料第十編第三巻』p133によれば「開山浄勝 俗名前田源左衛門光法、天正二年草創」とあり。