巨勢神社

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■所在地佐賀市巨勢町
■登録ID690

佐賀県史編纂資料『巨勢神社由緒記』に次の記載がある。   
肥前州巨勢荘鎮守巨勢大明神は人皇37代孝徳天皇の御宇異族壱岐、対馬の二島を犯すに依り巨勢大連征伐の勅を蒙り下向せり。御退治の後猶西津守護となり慢々たる広野を開き此所に跡を垂れ給うにより巨勢の荘と号し、宗廟巨勢大明神と崇め奉る(下略)
巨勢神社所蔵の『巨勢神社由緒記』、佐賀県神職会発行の『佐賀県神社誌要』にも同意のことが記されている。
『旧藩主各神社調』巻末記載によれば
鎮西肥前州巨勢庄鎮守宗廟巨勢老松大明神、本地不動明王なり。鎮守の由来を尋ね奉るに源頼朝公諸国の地頭職を兼ね給いし後、後鳥羽院の御宇建久5年武蔵国7党の内児玉党の宗子にて参河守俊治筑紫肥陽の地を領して、此の地に下向あり。(中略)故国の氏神老松大明神を瓦町に勧請し、五百余町の宗廟と仰ぎ、あわせて淀姫大明神・乙宮の二社を崇め、二社の本地観音菩薩・毘沙門天の二尊像を一堂に安置し奉らる。(中略)その後花園天皇の御宇延慶年中立川阿波守・同舎弟伊豆守・嫡男讃岐守・次男若狭守・鎌倉今泉村より当国に下向あり…とある。
天保10年円満院より実相院への書状の中には、
当社の宗廟と申し奉るは大化元年異国より大軍九州へ寄せ来り候節巨勢大連朝臣といいし人討鎮として勅命を蒙り此地に下向ありて不日に討鎮給い永く此地に留り神と跡を垂れ給う。只今の宝殿は即ち朝臣垂迹の所に付、白雉年中巨勢大明神当庄の崇廟と奉仰、また此地を巨勢の里となす。その後、参河守俊治といいし人肥陽の地を領し、此地に下向ありてその生国武蔵国の氏神老松大明神と、当国一の宮・淀姫杜・乙宮の三社を宗廟巨勢大明神の宝殿に新に勧請して四社の明神と尊崇し千余町の宗廟と奉仰せり、とある。
『円満院由来記』には
当庄に宗廟神崇に成りし事は白雉年間より、およそ五百四十余年後に、参河守俊治といいし人肥陽の地を領し、建久5年此地に下向ありて牟田という里に居城を築き、住居して故国武蔵の氏神老松大明神を瓦町宗廟本社に勧請し、ならびに淀姫社・天満宮・乙宮の三社を一殿に崇めらる。故に四社の明神と奉申。また古郷巨勢野になぞらえて此地を初めて巨勢と号す。(中略)右俊治の家はおよそ百十余年を経て絶えけるにや、後に相州鎌倉より立川阿波守といいし人、一族4人延慶年中此地に下向ありて、館を築き今泉と号せられ、瓦町の四社は巨勢の崇廟たるにより、今泉(巨勢川西岸一帯の総称)の中四本松一の角に遷されたり…とある。
創建の由来および祭神については前述のように一定していないが、祭神は巨勢大連・老松大明神・淀姫命・乙姫命、さらに菅原道真などを合祀されたものと考えられる。
このように変遷をしているが参河守の一族、立川氏の与党に尊崇され、巨勢郷唯一の鎮守神であったことは否定し難い事実といえよう。
境内に松尾神社・三輪神社・稲荷神社の三社がある。

出典:巨勢P.23巨勢町見てあるきP.11巨勢町の歴史散歩P.22

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