ノルマントン号海難事故と中林梧竹筆、八谷種次郎遭難追悼記念碑 | さがの歴史・文化お宝帳

ノルマントン号海難事故と中林梧竹筆、八谷種次郎遭難追悼記念碑

所在地 佐賀市東佐賀町3-1(常福寺)
年代 近代
登録ID 2560

出典資料から記載

明治17年清国より帰国後4年目の中林梧竹が精魂を傾けて揮毫した碑である。
てん額、碑文とも同一書者という極めて異例の形式で、双方とも藩存直伝のてん隷技法を駆使して書かれたわが国近代書道上、本格的てん隷書の先声をなすものとして注目され、関係者の見学が多い。
海難事故は、明治19年(1886) 10月23日、横浜港から神戸港へ向かっていた英国籍の汽船ノルマントン号が、翌24日午後10時頃、和歌山県沖で暗礁に乗り上げ遭難した。一瞬にして、日本人乗客25名が船と運命を共にした。
八谷種次郎は、佐賀市蓮池町に居住し、裁縫業と靴製造業に携わり財力豊かな生活であった。父の意を受けて上京し十分修業をして、その帰途に遭難したが年29歳であった。
当時は、日本人乗客25名を船中に置き去りにして、船長以下の英国人が離船したことに対する国内世論が沸騰した。一方政府は、英国との間に条約改正の談判交渉中でもあったので、この事件の追及で、英国の感情も害しない周到な用意も必要で、政府は世論の沸騰と条約改正の狭間に立って苦境に追いこまれた。
とにかく、その後いろいろの経緯があって、同年12月8日に至り、船長ドレークは、自己の職責を怠り、日本人船客25名を見殺しにしたものと判決され、 3月の禁固に処せられた。
 八谷種次郎の碑の碑文には、八谷種次郎は肥前の人なり。商工をもって裕国厚民の源となし、東京に至りて視察せり。帰付に及び、英国ノルマントン号の愉船のみ明治19年10月24日紀州洋に行き至り触礁沈没す。船長ドレークのなすところに因る。20余人と同じく難に及ぶ。時に年、29にして子1あり。哀れむべきのみなり。明治21年建。中林梧竹書
 碑石質は、『透角閃石かんらん岩』で別名を『竹葉石』『斑石』または『笹石』『町屋石』とも云って、茨城県と熊本県の産で大変高価で珍石と云われている。
出典:循誘  史跡探訪 歩こう会(P.1)

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