餓死塔 | さがの歴史・文化お宝帳

餓死塔

所在地 佐賀市大和町大字久留間1224(蔵福寺)
年代 近世
登録ID 2219

出典資料から記載

佐賀藩は温暖な気候と肥沃な田畑に恵まれていたので、度々の台風や洪水、干魃による凶作でも切り抜けてきたが、凶作のために餓死者を出すに至ったのは享保17年(1732)の大凶作による飢饉がただ1回であったらしい。わが佐保川島郷(旧川上村)も例外ではなかった。時の大庄屋中原只右衛門尉正純は郷内庶民の苦しみを哀れみ、米倉を開放して難民に粥を与えた。1粒の米はおろかあらゆる物を食べ尽くし、餓死寸前の難民達は当地区(平野)に群がり集まって、1杯の粥の恵みを受けたが、ようやく粥場までたどり着いて落命する者も多かった。
大庄屋中原只右衛門尉正純は大飢饉の危機を脱すると、佐保川島郷内の餓死者供養塔を平野の龍徳院に建立したのが今日も残っていて、その塔の正面に
「佐嘉郡佐保川嶋郷内 几男女貮千六百四十餘人餓死塔 無主孤魂無邊幽靈等」と記してあり、左側面から右側面にかけては、漢文で次のような意味の碑文が刻まれている。
「享保17年より18年にわたり五穀みのらず飢饉となった。藩主も倉庫を開いて救援米としたが救うことができない。諸国、貴践を問わず飢に苦しみ、ついに餓死者の屍は路に重なり合い、その数は数千にも及び何とも施す術がない。茲に中原只右衛門尉正純は佐保川島郷のために救援に尽くしたが力が及ばなかった。そこで郷内餓死者の魂を弔うために、ここに餓死塔1基を建立した」
また、久留間の曹洞宗蔵福寺の旧境内にある餓死塔は高さ約1mで、正面に「餓死諸亡霊塔」と刻まれ、右側面に宝暦7年(1757)11月15日当寺の得容和尚建立と刻んである。
出典:大和町史P264〜267

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