神代家と金立のかかわり | さがの歴史・文化お宝帳

神代家と金立のかかわり

所在地 佐賀市金立町
登録ID 1776

出典資料から記載

①神代対馬守宗元公の肥前落ち
豊後の大友親治は、度々筑後に進入し筑後の国を平定し支配していた。久留米城主に一族の高橋宗山をおき、文明12年蒲池宗雪、安武鑑政等も大友の支配下に入っていた。
 筑前の大内義隆は、大友が豊後国に帰陣するすきをついて筑後に兵を進めたが、筑後の兵の結束がかたく、野望は果せなかった。
 その後筑後は平穏であったが、文亀3年(1504年)ごろより蒲池氏・西牟田氏等は八女郡の福島氏を滅し、吾が配下にしようと企てていた。
 永正6年7月(1509年)神代対馬守勝元公は、嫡子宗元と共に、自領神代村で平穏な生活を送っていたが、縁籍の福島兵部大夫から、急援を要請され一族郎党500余騎をひきいて、かけつけたが、福島城はすでに敵に囲まれ、城外にて蒲池・西牟田軍と戦った。
 しかし、戦い利あらずして、勝元公は討死、一族の大半を失い、神代甚五衛門は勝元公の弟にあたるが、生きのびて宗元公を守り、神代家再興のため筑後の国をおちのびようと、筑後川を渡り、主従身を変へ肥前の国へおちのびた。
 神代宗元公は、50代にわたり筑後三井郡を領地としていたが、この戦いで領地をすてねばならなくなった。
 自害をしようとする宗元公をいさめ、肥前国松浦の岸岳城主波多三河守に援助を受けるため旅をつづけた。 波多三河守は、足利尊氏が太宰府在住の折、神代道元公と共に尊氏守護を命ぜられた間柄であった。
 ところで一行は神代宗元公 嫡子利之公 親代甚五衛門 同審元同兵庫頭 同新太郎 同蔵之助 国分和泉守 山口周防守 古川入道真清 恒松 溝田 城島 八坂 真島 溝岡 その他郎党27名であったといわれる。
 官道を田手にとり城原をすぎるまでは、隊列をつくらずバラバラに歩き、百姓・町人の姿で川久保和泉町まできた。
 とき早くも西山に没しようとするところ、一天にわかにかきくもり雷雨となったので、村里をさがして走りに走り、千布の里の地蔵堂に雨やどりをした。
 そのとき、馬上の武将らしき者が、2~30人の供をつれて地蔵堂の前を通りかかった。
 大将らしき者は風体いかにも野人か百姓風に見えたが、眼光するどく伴をつれての雨やどりであやしい者どもと思い姓名を問いただした。
 神代宗元を中にして雨やどりをしていた一行の中から、甚五衛門が、静かに馬のそばに進み出て、「元筑後の住人神代対馬守勝元公ゆかりの者で、この度筑後国柳川城・西牟田城主に打負され、松浦岸岳城主波多三河守をたより浪々している」とかくさず申し出た。
 馬上の武士は、馬よりおりて宗元公のそばまで進み、それがしは、この地の地頭陣内大和守と申す者です。ここでは身体に悪い、吾が館にきて休まれるとよい、お茶等進ぜましょうと、やさしく申された。宗元公は喜び一行は安どし、陣内氏の後に従った。
 陣内氏はこの日住吉神社において、的の会を催していたが、雨に会い帰館する途中であり、地蔵堂はこの道筋だった。
 陣内氏は、元は摂津国の住人で、住吉神宮の神官で、住吉祭神を供奉し、千布氏とともにこの地に移住してきた人である。
 神代の一行は、すすめられるままに館にとどまり、夜を徹して世状を語り合い、意気投合したといわれる。
 ところで、陣内氏にはひとりの娘があり、かねてから良き武士を見つけて千布の館を相続させうと考えていた。そこへはからずもふさわしい若武者を見出だし、天の授けと喜び、奥方と共に娘のむこにしたいと心にきめ、翌日宗元公がいとまごいにきてもいろいろ策をろうして引きとめた。
 その間神代の家臣たちと弓矢や剣の修業にはげみ、住吉神社境内に宿を設け、住まわせた。
 陣内氏は娘を宗元公に近づかせ、この娘も宗元公を愛するようになり、陣内氏は、ころを見て甚五衛門兵庫頭を呼ばれ、娘のむことしたい旨を話された。
 甚五衛門は、利之殿があることを考えたが、まだ幼く宗元公とも相談され陣内氏の恩に報いるのも武士として当然かと思い、陣内氏の娘との間に、男子が生れた場合は、その一子は神代氏の嫡男とするという約定を入れて、陣内家養子となった。
 利之公は、宗元公が筑後在住の折福島兵部大夫の娘と婚姻し、その間に生れたが、幼くして目を病み片目が不自由となり、神代家総領としては不適当でもあり宗元公もそれが気がかりだった。
 ここで神代対馬守宗元公は陣内氏の養子となり、千布因幡守宗元として、千布の館に留ることになり、神代一族は当分の間金立に館を築き、相続人定まるまで、千布家の属臣となる。
 永正8年(1511年)宗元公千布家において第一子誕生。この男の子が、後の勝利公である。
 名を新次郎という。
 養育係を神代審元に命じた。
 永正10年第二子誕生。この子が千布家相続後千布頃幡守宗利公となる。
 大永5年(1525年)新次郎15才になり、神代審元は宗元公と今後の養育について協議され、小城晴気城千葉家の家臣で、武術指南役奥常之という人が、この地方で優秀な武士であることを聞き、弟子入りを進言した。宗元公に異存なく、直に審元を小城に走らせ、新次郎の弟子入りを懇願した。奥氏はこれを承知し、その年の3月に、新次郎初めての他国への修業旅立ちとなった。
 修業をはじめて2ヶ月奥氏は新次郎の優れた力量と天性の武術に驚き、末おそろしい若者と折紙をつけたといわれる。
 一緒に修業をしていた江原某という若者も、遠く及ばなかったといわれている。
 ある夜、江原は新次郎を起し、吾 不思議な夢を見た。とすなはち吾身みるみるうちに大きくなり、天山の山頂に腰をかけ、玄海の白波にて足を洗う、実に心清く愉快であった……と話したところ、新次郎はこれ正に吉夢なり! しかし貴公には不適当な夢であり、自分に適した夢である。その夢を吾に譲ってほしいといったとか……
 江原笑ってこの夢はわたしの見た夢で、新次郎殿がこの夢をもらっても意味のないことととりあわなかった。新次郎それでもこりずに、その夢の話は、将来大物となる兆のある夢であるから是非売ってくれとたのみ、その代価として脇差をさし出した。この熱心さに江原も折れて新次郎の気がすむように、脇差一振と交換した。
 この江原という武士は、父の名を江原丹後守利重といい、武蔵国の住人で、平家一門で、千葉常胤に従い姓も平から江原に改め、小城にきて、千葉氏に奉公していたもので、その子の名を利家という
 後に千葉家が龍造寺に討れ、神代勝利公を頼り、家臣となって筑前国長野(糸島郡)に館を築き、200石を知行とした。
 太永9年奥 常之は、最早や新次郎に教えることもないとして、免許を与え師弟の契をといた。
②新次郎神代家総領となる
 神代家は古く応仁天皇220余年ごろ、武内宿禰是則、筑後国高良山に居住しいろいろな功績により、神功皇后より筑後国を賜り、且つ神にかわって反徒を亡したことで、「神代」の2字を賜った。
 その後子孫の姓を神代として受けつぎ今日に至ると伝えられている。
 他国(中国の国)に神代の姓があるが、これはコウシロと読みクマシロとは読み方を異にする。
 神代家は、代々高良山一帯を所領とし、文治元年ごろ神代良元公が、熊代邑に館を築き、この地を神代村とよぶようになった。(現在の久留米市神代町)
 神代家の記録はとぼしいが、1~2をあげれば
◎文永11年(1274)蒙古襲来のとき、鎌倉幕府の執権北条時宗公は、直ちに全国の武将に教書をおくり、軍兵博多に参集した。
 当時神代家は35代良忠公で、直ちに参戦に応じたが、昨夜来の豪雨で、筑後川が増水し渡河不能となった。良元公は附近の住人を集め、浮橋をつくり、九州各地より参戦する将兵の渡河を容易にした。
 後に北条時宗公がこのことを聞きおよび、建治元年良忠公に恩賞を賜ったという。
◎正慶2年(1333)38代神代良基公が少弐貞経公の要請により、太宰府探題北条英時を攻め、これを追放する軍功があったとされている。
 その後南朝方の菊池武俊を良基公・少弐貞経等と戦い、菊池一族を敗り、大勝をえて、康永2年足利将軍より三井郡櫛原村80町を賜り、この地一帯の地頭となった。
 神代勝元公までは、櫛原村 神代村 高良山一帯の地頭職をつとめた。
 新次郎は一人前の剣術者として、各地の道場を巡歴し、武芸百般に通じるようになり、弟子入りするものもでてくることで、養育係の審元は、このことを千布の館で宗元公に報告し、千布家の武芸指南をさせるべきだとして、金立村(町)に道場を開いた。
 新次郎が18才となったとき、宗元公は神代総領を定めようと、子の利之公や神代甚五衛門・兵庫頭・神太郎等をよび協議された。
 利之公は宗元公の意を拝して、自分は不具の身であるから神代家総領は、新次郎が適任であると、自ら身を引いた。宗元公はじめ一族に異議をとなえる者はなく、佳き日を選び住吉神社において相続の儀式がとりおこなわれた。
 儀式当日は、千布家並びに神代一族が住吉神社に集まり、神楽を奏じ、献幣し、利之公は新次郎の次に座り儀式をすまされた。
 とき享禄2年(1529)5月51代神代家総領の誕生である。
 名を刑部少輔勝利と改めた。
出典:ふるさと金立p.18〜22

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