龍造寺隆信と鹿子天満宮

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龍造寺隆信と鹿子天満宮

■所在地佐賀市本庄町大字鹿子179
■年代中世
■登録ID793

天文20年(1551)豊後の大友義鎮(宗麟)並びに佐賀隣郷の豪族等と少貳家再興を企図して、佐賀城を襲撃しようとするのを知り、隆信は大勢の不利なことを悟り、一時筑後柳川の一木村に避けた。鍋島清房等もこれに従って行った。
天文21年隆信は旧領回復をはかったが、失敗した。
天文22年隆信は早田次郎左衛門等を使者として与賀郷鹿子天満宮に参って、鹿子の古賀民部の尽力によって、久米、徳久、村岡、末次、飯盛の5人の郷長と隆信帰国の事を密談し協力を得、隆信は鹿江兼明の船で7月25日に一ツ木を出発した。千歳川(筑後川)を渡り、漁夫園田次郎兵衛の水先案内で、川副郷南端の鹿江崎に上陸し、肥前侍の鹿ノ江、石井、南里、古賀等の出迎えを受け、乾堂(犬井道)へ。27日に鹿江の威徳寺に入り旗揚げをなした。
福地長門守は、与賀郷(本庄八田)船津に上陸し村岡藤七兵衛宅に、副島以下の郷長を始め数千人が集まった。
高木、八戸氏等の家臣が、海岸警護のために駐屯する。与賀郷の飯盛館(高取の内鹿子の塁とも言う)を攻めることにして鹿子龍昌院に陣し、急襲して勝利を収めた。
隆信は南里、八田口から押し進み、高木鑑房、八戸宗暘等が立籠っていた十五堀の要塞を一蹴して佐賀城に入り、更に同天文22年10月16日小田政光を蓮池城に攻めた。
時に鍋島直茂16歳の初陣であった。

出典:かたりべの里鹿子P.49本荘の歴史P.70

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