中島神社

中島神社

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■所在地佐賀市本庄町大字末次940
■年代近代
■登録ID780

中島区には天満宮、辨財天、宝満宮がそれぞれ氏神として祀られていた。
天満宮は野々天神さんと言い亀川氏宅東北にあったが、大水害により、大正12年に千々岩惣次郎氏宅東に移転した。
辨財天社は溝内六次氏宅裏に祀られていたのである。
宝満神社は筑前の竃門(ソウモン)山宝満宮の分霊を奉じ、社殿を享和元年(1801)11月18日建立した。祭神は、息長足姫命、玉依姫命、与田別命の三神である。
昭和5年7月に三社を合祀し、中島神社と改める。
境内には多くの寄せ石仏があるが、「疫神齋」は本庄町内に唯一で珍らしい。当時特に恐れられた「疱瘡」の流行に対する厄病神送りが、この石祠を中心に笛や太鼓で、にぎやかに行なわれたことであろう。
住民と厄病神信仰の風習は疫神祭を御霊会(ゴリョウエ)と呼んで古くからあった。
小祠に疱瘡神を祀りこめ、供物をそなえ拝み、瘡(カサ)をとってくれるよう盛大な神祭りを行った。
この祭りは、あくまで厄神を慰撫することに主要な目的があった。疱瘡は高熱を発し、病人は熱のため、奇妙な言葉を口走る。熱が去ると今度は醜怪な瘡が噴き出てくる。流行すると乳幼児ほどかかりやすいこともあり、医学が発達していない段階では、麻疹(ハシカ)とともに幼児は必ずかかる病気の一つと思われ、とくにその病状から、特別の霊がのり移り、不思議な現象を示すと信じられていた。
一般に厄病神送りの風習は村に伝染病が入ってくると、御幣を入れた藁の神輿を作り、病人の家をまわる。家の中に入り、家の厄病神をこの神輿にのり移らせようと、身ぶり手ぶりで病人の体内から厄病神を引き抜くふりをする。その御輿を笛や太鼓で、にぎやかに村境まで送り返し焼き払った。また御札や御幣はすべて赤色を使った。
農耕儀礼のなかの虫送りと厄病神送りの風習も同じようなものであった。

出典:かたりべの里本荘東分P.67本荘の歴史P.127

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