長崎街道と嘉瀬

  1. 旧佐賀市
  2. 嘉瀬校区
  3. 長崎街道と嘉瀬

長崎街道と嘉瀬

  • 長崎街道と嘉瀬
  • 長崎街道と嘉瀬
  • 長崎街道と嘉瀬

■所在地佐賀市嘉瀬町
■登録ID76

近世になって嘉瀬が史上脚光を浴びるようになったのは、何と言っても嘉瀬が、村の中央を東西に貫く長崎街道の重要な位置にあったからである。長崎街道は、鎖国時代日本唯一の貿易港長崎に通じる日本幹線道路であった。江戸時代全国の幹線道路は、五街道・八脇街道であった。長崎街道は山陽道に直結する九州唯一の脇街道(脇往還)であった。オランダ商館員ケンペル(1690〜92滞在)や、シーボルト(1823〜28・再来59〜62)も、この街道を通って江戸参府を行っている。
 この街道筋で栄えたのは、本庄川の河港高橋宿で、下流の厘外・今津・相応津と共に用船の寄港地として繁栄した。天草・八代方面からの川船の出入が多く、バラス・木炭・薪・カライモなどを運んできた。入船は多いとき日に14,5隻もあった。その時は市が立ち近隣からの買い物客で賑わっていた。宿場には呉服屋・米屋・料理屋が軒を並べ、西の今宿といわれたという。それに続く扇町は、有名な鍋島緞通の生産地で、扇町出身の古賀清右衛門を元祖とする「扇町毛氈」として有名になった。藩の幕府への献上品にもなっていた。また明治維新に職を失った士族救済の為の士族授産として技術指導が行われたという。
 嘉瀬川の嘉瀬津は、河港として中世末から江戸時代を通じて長崎街道の宿場町として栄えていた。嘉瀬上町・嘉瀬下町に分かれていた。藩は、ここに「津方」を置いて、港としてまた宿場町としての商業取引一切を管理していた。特産品として、鍋・釜・障子・襖等があった。本来、農業生産地嘉瀬も、長崎街道筋では交通商取引の盛んな宿場町として賑わっていた。

出典:嘉瀬町史 (P.19)