千葉胤正(胤誠)の墓

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千葉胤正(胤誠)の墓

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■所在地佐賀市久保泉町
■登録ID5400

千葉家は下総(千葉県北部・茨城の一部)の桓武平氏で、蒙古襲来の文永の役(1274)に九州に下向した武士団で、戦後そのまま小城の晴気荘の地頭となり、小城・杵島・佐賀の一部を領した。全盛時代は、肥前国主と自称し小城を国府・尼寺国府を府中と呼ばせたこともあるが、戦乱の頃は親子兄弟の内輪もめが絶えなかった。
 永祿2年(1559)正月11日、龍造寺隆信によって千葉胤正の小城晴気城は落され、兄の胤朝は陣没。少弐冬尚は逃れて仁比山で自害した。
 胤正は、この仇を打つには神代勝利の力を借らねば出来ないと考え、勝利に援を乞いに山内に来た。勝利は若い頃一時千葉家に居たこともあり、胤正を三瀬の土師村に住わせた。胤正は家伝の八龍宮を氏祖と崇め、妙見菩薩の祠を建て祀った。
 仇討ちの機をうかがっていたが、来せぬまま文禄2年(1593)逝去。『平日義大神祇』とおくり名(法名)され、皿山の西の丘に葬られた。ここを屋形山というのは、千葉家の家柄に対する敬称で、館の字を当てない。
 ここには敗戦後まで、立派な松があった。江藤新平はその末孫という。
 一緒に葬ってあるのは、胤正の一人娘で数奇な一生を送り寛文元年(1661)7月晦日卆。眞如院殿妙光日住大姉である。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.48〜49

通称屋形山と呼ばれる丘陵最頂部(標高約46m)に東西約20m・南北約15mの平坦面があり、その平坦面の西側寄りに石製供養塔1基が造立されている。傍らの標柱には「館跡 千葉胤正の墓」とあり、「千葉胤正」とは「千葉胤誠」のことと考えられる。『小城町史』千葉系図(124頁)によると千葉胤誠は小城晴気城主千葉胤頼の一子で、記録には「法名日儀 胤政トモ 文禄二年九月十三日於河窪卒去」とある。さらにその女子に「江上右京亮室 離別 法名日住」とあることから、双方とも文面に過不足はあるものの、胤誠の卒年日・法名(儀と義の違いはある)、女子の法名ともに共通点がみられる。また胤誠が「於河窪卒去」したことを信用するならば、かかる供養塔が当地に存在する理由も頷ける。ただ現段階ではその史実の是非や、この塔が墓碑か単なる供養塔であるのかについて不明な点が多く言及できないが、この塔が千葉胤誠父子の供養を目的に造立されたものであることは間違いないと思われる。
 以下、供養塔の詳細について述べる。
 供養塔は玄武岩系石材で、基礎・牌身・笠部・宝珠の4部3石から構成される。その規模は次のとおり。
 地上総高144㎝
 [基礎]
 地上高17㎝、幅61㎝、奥行45.5㎝
 [牌身]
 全高84.5㎝、幅39㎝、全奥行26㎝。正面は縦61㎝、横30~31㎝の範囲を約1㎝彫り窪めて龕部となし、その内側に文字を陰刻する。陰刻された文字は彫りが浅く、また風化のため肉眼ではやや判別が困難であったが、採拓によって以下のように判別できた。また龕部下部には面取りを施す。
 (向かって右) 文禄二(癸カ)巳九月十三日
 (同 中央右) 平日義 大神(儀カ)
 (同 中央左) 南無妙法蓮華経
 (同   左) 真如院殿妙光日住淑霊
 [笠部・宝珠]
 笠部と宝珠は1石による刻出である。
 全高43㎝、笠部高25㎝、幅60㎝、奥行46㎝、宝珠高18㎝、幅19×23.5㎝

出典:『佐賀市埋蔵文化財確認調査報告書-1997・1998年度-』p.80〜81

「神代家伝記」乾
●金鋪合戦、付小川筑後守最後并千葉来当家事
(中略)
 伝曰、此胤正ハ仁皇五十代桓武天皇ヨリ四代高望二六世、千葉助常長二四代ノ孫平常胤ヨリ十二代ナリ、胤基ニハ孫胤鎮ニハ子也、然ルニ一家ノ千葉胤連隆信公ト一ツニ成、永禄二年己未正月十一日、胤正居城晴気ヲ攻落シ胤正ノ兄胤頼ヲモ殺ス、此時ニ当テ胤頼ノ実兄少弐冬尚モ討レ玉フニ依テ、胤正当家ニハ来ルト也、其後、文禄二年癸己九月十三日、胤正卒去アリ、謚平日義大神儀、川久保帯隈山ノ南ノ阜ニ葬ル(證ノ松、今ニ有)、此故ニ其阜ヲ屋形山ト号ス(少弐・大友・千葉此三家ヲ号屋形ト故ナリ)、胤正ニ一人ノ姫アリ、佐野右京亮ニ嫁ス、離別有テ後、小柳自鑑(小柳右衛門佐カ兄也、胤正ノ妻生彼姫、後此人ニ嫁ス、此所縁ヲ以テ如此、小柳源次兵衛祖也、右衛門佐ハ小柳利右衛門・宇治五兵衛・小柳甚左衛門各祖ナリ)カ家ニ居シメテ被扶助、常親公(始メ御諱茂良公、中頃号常氏公)ノ時、此人ヲ姉君ト冊キ千葉ノ系図今ニ有、并妙見菩薩ノ像・同太刀(以上ノ二種勝茂公ヨリ召之故ニ被献、其時ノ証文今ニ有)、其外ノ譲物受納シ、嗣姓ヲ平ニ改、月ニ星ノ紋并実名ニ常ノ字ヲ用玉シコトアリ、寛文元年七月三十日、胤正ノ姫卒去、父ト一処ニ葬ル、法名真如院殿妙光日住大姉ト号ス(石塔于今アリ)、(後略)

出典:『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』2009年,p98