蓮池5ヶ町など

  1. 旧佐賀市
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蓮池5ヶ町など

■所在地佐賀市蓮池町
■登録ID353

お城下は、城内のほか郭内と郭外に分けられ、郭外には武家を配置し、郭内5町を町人の町とした。
 本町は5か村のうち一番早くからの町のようで、小田氏の頃は嘉与丁と続いていたらしく、浄国寺の山門は、嘉与丁にあったという。鍋島時代も商店街として栄え、明治以後は、法務局(登記所)、駐在所、郵便局などが並び、大正に至り、肥筑軌道の蓮池駅もでき、種々製造業があって活気を呈したが、現在は空地も見られるようになった。
 魚町は、今宿江が今の形に出来てから船着場の商人町として栄えた。慶応年間橋の架かる前は、嘉与丁との間は舟渡しで、魚町の方に水口として番所があった。問屋は唐芋でよそにも知られたが、(トコロ)テングサなども扱われた。廃品回収業も九州初の業者として、上方へ船積みして盛んであった。種油、うどん、水引、傘、カマス、米なども出荷された。明治には人力車の「タテ場」が出来、順を待ってたむろしていたという。
 西小路・北小路は武家屋敷で、明治になると、軍人、官僚、学校の先生等になって蓮池を離れた人が多い。
 城原町、神埼町はその名の通り、元日の隈山の東、城原の江上氏に従って移り住んだ人達で出来た町で、城原町は職人の町、神埼町は商人の町として栄えた。
藩の御用金を承ったという丸木屋は薬種商が本業で知られた。ここに昔伝わった「髪の毛綱」は城の普請に使われた物とも言われ、拝領ものと想像されるが、今は、千代田公民館に保存されている。
 紺屋町は昔、金銀細工、うるし細工など盛んで、今佐賀に残るマトイにも紺屋町、本町の名が記されている。度々の火災で昔の紺屋町の繁栄を知る資料が少ない。

出典:芙蓉P.163