石井樋

石井樋

■所在地佐賀市鍋島町岸川
■登録ID2617

 元和元年(1615)大阪夏の陣を終え、天下平穏になってから、成富兵庫は藩主勝茂に献策して、領内の耕地開発と土木水利に専念し、千栗堤防築造、田手川(蛤水道)、城原川(横落水路)の開発、巨勢野の開拓、伊万里の塩田造成など、いずれも目をみはる様な立派な工事であるが、石井樋の構築は現代科学技術からみてもまことに合理的妙法と称えられている。用地内に「成富君水功之碑」がある。碑の題字は副島種臣の書で毎年9月18日に例祭が施行されている。

出典:鍋島町史p.155〜156

石井樋という名称は本来、石でできた樋門という意味で、多布施川入口の3つの樋門を指すが、いつの頃からか、その呼び方が施設全体の総称となった。
1.石井樋の構造と特徴
大井手堰で嘉瀬川の水を堰き止め、象の鼻・天狗の鼻という施設で造られた導水路で水を一旦逆流させて井樋の方に導き、ノコシという堰で水を堰き止め、井樋を通って多布施川に水を流す。ノコシを越えた水は、更に二ノ井手で堰止められ、岸川作水という水路に流れ、二ノ井手を越えた水は余水として水路を通って嘉瀬川に戻る。特に工夫をこらし、石井樋の特徴になっているのは象の鼻・天狗の鼻で造られた導水路で、この部分を使って一旦、水を逆流させることによって水の勢いを緩め、緩めることで水の中に含まれた砂を下に落として、きれいな水だけを下流に送るようにしていることである。

出典:佐賀県大和町の文化財(P4)

地図