肥前風土記

肥前風土記

■所在地佐賀市大和町
■年代古代
■登録ID2246

前代すでに漢字漢文がわが国に伝来し幾らかの文献ができたが、わが郷土に関する記録は極めて少なく、わずかに肥前風土記があるだけである。
 風土記は元明天皇和銅6年(713)諸国に命じてその国名、郡名、郷名、またその郡内に生産する銀銅、彩色、草木禽獣魚虫等の種類名称をくわしく記録し、又その地方の古老が昔から言いつぎ語りついできた古い伝承や変わった事蹟等を集め整理して、これをまとめた書冊にして奉れといっている。当時、62国2島のものが編さんされたはずだが今日まとまって現存するものは、肥前風土記、豊後風土記、常陸風土記、播磨風土記、出雲風土記の5つだけである。このような現状の中で肥前風土記が現在に伝わっていることは非常に貴重なことで、古代における肥前国を知る上に大きな役割を果たしている。この肥前風土記の中から佐賀郡に関係した所をあげてみよう。
  佐嘉郡郷六所 里十九 駅一所 寺一所。
  昔者、樟の木一株、此の村に生ひたり。幹と技(※)秀高く、茎も繁茂れり。朝日の影には杵島郡の蒲川山を蔽ひ、暮日の影には養父郡の草横山を蔽へり、日本武尊の巡幸したまいし時、樟の茂りたるを御覧して日りたまわく、此の国は栄国と謂うべしと曰りたまいき。因りて栄郡(さかえのこおり)と曰う。後に改めて佐嘉郡と号う。一は云う。郡の西に川あり。名を佐嘉川と曰う。年魚あり。其の源は北の山より出で、南に流れて海に入る。山の川上に荒ぶる神有り。往来の人、半ば生き半殺にき。ここに県主らが祖大荒田、占問いき。時に土蜘妹の大山田女、狭山田女といふものあり。二の女子の云へらく、下田村の土を取りて、人形、馬形を作りて此の神を祭祀らば、必ず応へ和むことあらむとまをしき、即ちそのことばのままに、此の神を祭りしに、神此の祭を受けて、ついに応へ和みき。ここに大荒田云へらく、此の婦はかく実に賢しき女なり。故れ賢女を以て国の名と為むと欲うといいて、因りて賢女郡(さかしめのごおり)と日う。今佐嘉郡と謂うは訛れるなり。
(註) 此の村=鍋島町ではないか。蒲川山=江北町佐留志の堤尾山か。草横山=中原の綾部山を草山といいその辺りを横山という(肥前旧事より)
大山田女、狭山田女は東山田又は西山田に関係があろう。下田=梅野下田
 このように、佐嘉郡の名称といわれをそれぞれ二説で表わしている。肥前国における原始時代、大化前代の神々については風土記によって幾らか伺い知る事が出来る。往来の旅人を多く殺したという伝承が見えるが、県主の先祖大荒田が土蜘妹の大山田女、狭山田女という巫女(神のお告げをする女)に占わせて神意を聞き、「いけにえ」の代りに人形、馬形を造って祀りしずめている。このような荒ぶる神は当時の世の乱れを表わすもので、大和朝廷の統一が進むに従って交通路も新しく開かれ、交易、貢納のため旅人の往来も安全になり、従来のとざされた地方神が屈服して行く有様を物語ったものであろう。風土記はその内容に郷里制が見られるところから、郷里制が施行されていた霊亀元年(715)天平11、2年(739-740)までの間に作られたものであろう。

※正しくは幹と枝

出典:大和町史p135〜138