名護屋橋

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名護屋橋

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■所在地佐賀市大和町川上春日
■登録ID2211

 豊臣秀吉が征韓のため、この地を通過したのが文禄元年(1592)である。その日はあいにくの大雨で、川上川は氾濫し渡河に困難を極めた。鍋島直茂は尼寺宿で秀吉の軍をねぎらい、急いで船橋を作り秀吉の軍を渡した。以来名護屋橋と称するようになったと「普聞書」に述べている。
 従来渡船場であったが、明治17年(1884)9月、その筋の許可を得て尼寺村と平野村協同の賃取橋を架設した。その時の標柱が平野側のは平野の白山妙理権現社に、尼寺側のが尼寺の印鑰社にそれぞれ保存されている。
 明治40年(1907)県費支弁となり、同42年(1904)の洪水で流失したので再び架設した。橋長32間(57.6m)、幅2間(3.6m)の木柱の土橋で、現位置よりやや上流、大和中学校前の県道を東に延長したくらいの位置に架し、渡り終えてから南に下り、更に左折して祇園土井にだらだら坂を登って行った。川上川両岸の堤防は今のように高くなかったので、橋の高さも低かったが、西側の堤防は比較的高かったので、佐賀の町の野菜市場へ出す荷車(当時はほとんど車力)は1人では登れなかった。だから連れの者と協力したり、家族の誰かが後押しのため、ここと更に祇園土井まで行くのが通例であった。
 橋の付近の道の両側には大きな椋の木が栄え、夏は涼しい緑陰となり憩いの場でもあった。
 この橋も昭和20年(1945)の洪水で流失し、この橋よりやや下流にコンクリート橋が出来たが、これも同24年(1949)の洪水で倒壊したので、西側の堤防を更に高め、橋脚を高くしてコンクリート橋とし、東側は祇園土井まで陸橋や長堤でつなぎ、又同46年(1971)3月橋の南側に歩道・自転車道がつけられた。

※写真の石碑は白山社にある標柱。

出典:大和町史P.605〜607

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