香月経五郎

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香月経五郎

■所在地佐賀市川副町
■年代近代
■登録ID2070

(1849-1874)
 明治7年の佐賀戦争では、江藤新平や島義勇など優れた人材を佐賀は失ったが、特に惜しまれたのは明治初年に3年も4年も欧米に留学した新知識であり、また年も数えの27歳と26歳という、山中一郎と香月経五郎が斬罪となったことであった。このうち香月経五郎は嘉永2年(1849)当時の川副下郷早津江村1番地で、佐賀藩士香月三之允の長男に生まれた。幼少の頃は愚鈍のため、周囲のものがフーケモンといって馬鹿者扱いをしたというが、藩校の弘道館に入った頃からメキメキと非凡の才能ぶりを発揮したとのこと。弘道館で文武両道を励むかたわら、副島種臣と江藤新平に私淑して勤皇討幕の精神をたたきこまれたが、数えの19歳で長崎の致遠館に留学し、ここで英語を学んだ頃は断然頭格を現わしたという。明治2年、21歳のとき上京して、東大の前身となった大学南校に入ったが、翌3年、文部省(このときは大学といった)の命で第1回の海外留学生に選抜され、アメリカとイギリスに4年間近く留まって勉強した。この海外留学も江藤新平の推挙によったが、山中一郎と香月経五郎の2人が「藤門の双壁」ともいわれたのである。香月はアメリカではアルバニー大学で勉強した記録がある。またイギリスのオックスフォード大学では最後の佐賀藩主であった鍋島直大といっしよに勉強した。 香月は東京の大学南校では後に東大教授となった田尻稲次郎博士や、枢密顧問官となった目賀田種次郎男爵と同窓であった。またロンドンでは昭和初期まで政界の惑星といわれた枢密顧問官の伊東巳代治伯爵を指導した先輩でもあった。ロンドンから香月が帰国して横浜に上陸したのが明治6年12月29日であり、東京に入ったのが12月30日であった。この1ヵ月半後の7年2月16日未明に佐賀戦争が勃発したわけである。7年1月13日、香月は江藤新平、山中一郎、土佐の林有造、思案橋事件を起こした会津の永岡久茂、薩摩の樺山資綱たちと三菱の汽船で横浜を出帆西下した。佐賀に帰った香月は1月下旬、いちおう佐賀県庁の中属として奉職したが、新任の岩村高俊権令が熊本鎮台兵をつれて佐賀に入城することには誰よりも強く反対、この応戦準備も進めたのである。佐賀戦争では江藤新平の参謀格として戦ったが、江藤一行より1日遅れて7年2月24日、丸目の渡しから鹿児島向け脱出した。その後江藤一行に加わって四国に渡り、高知で片岡健吉や林有造とも会ったが、結局3月23日、高知県幡多郡種崎町で中島鼎蔵、横山万里、中島又吉、櫛山叙臣と捕縛となった。
佐賀に護送の上、裁判の結果、山里一郎と共に「除族の上斬罪」となったが、香月などの最後について残忍の大久保利通も4月13日の日記に次のように書いた。
 「…今朝、江藤、島以下十二人断罪に付、罪文申聞かせを聞く。…朝倉、香月、山中等は賊中の男子と見えたり。刑場に引き出され候節も、分けて山中は男らしく刑に就きたる由、今日都合克相済み大安心。然れども数人の壮士斬る中に、香月の如き可憐ものも有之。皇国の為めとは申しながら、頗る慨するに堪えたり云々」
『西南記伝』では香月のことを「経五郎、人と為り、白誓巨頭、風采威あり」とか、「経五郎、天資俊敏、最も弁舌に長じ、頗る臨機の才に富む。其の人と交るや、豪も城壁を設けず。故に一旦、彼と接すものは、直に親善し、縦令、其言往々虚に亘るあるも、人、猶之を信ずる程なりしと云ふ」と書いてある。
香月には一弟一妹がおり、弟三郎は後に陸軍大佐となって名古屋の連隊長などしたというが詳しいその後の消息はわからない。香月が弟三郎に寄せた遺詩がある。
   寄懐弟香月三郎在浪花
 汝是男児異女児 聞吾就死又何悲
 王師西八鶏林日 應識阿兄瞑同時
 香月経五郎の「鳴呼香月経五郎之墓」と彫った墓石はいま高木瀬町国道際の極楽寺の壁に建てかけられ、空しく風雨に打たれているが、香月経五郎の人物を知ってこれを見るものは、誰でも俊才の末路を哀れまざるを得ないだろう。

出典:川副町誌P.997〜P.1000