佐野常民

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佐野常民

■所在地佐賀市川副町
■年代近代
■登録ID2066

 (1822-1902)
佐野常民は、川副町が生んだ最も偉大な人物といってもよかろう。日本海軍の勃興期に力をつくし、また博覧会によって殖産興業の発展に寄与したり、貧窮の画家を助けては美術の振興を奨励したり、更に最大の功績としては明治10年の西南の役に博愛社をつくって敵味方の負傷者を救済して日本赤十字社の基礎を築いた。これらの功績によって佐野常民は正二位伯爵、旭日菊花大綬章の栄冠を得たのである。佐野が生まれた早津江には、大正15年、日本赤十字社が創立50周年に際して佐野の記念碑を建て、昭和3年4月19日には胸像の除幕式をした。(現在日本赤十字社佐賀県支部前の胸像は戦後のものである)
 佐野常民は、文政5年(1822)12月28日、佐賀藩士下村三郎左衛門光贇の五男に生まれた。佐野家の先祖は下野国(栃木県)押領使として佐野に住んだ藤原秀郷(田原藤太)という。その子孫が戦国時代、豊臣氏についたため、徳川幕府から大名の地位を蹴落とされたともいう。実父の下村光贇は藩主直正の内命で佐賀藩の赤字財政を建て直すため、大阪に行って金を借りた富豪たちに借金の返済延期を交渉したり、また公儀のほかは一切の諸礼諸式の廃止を断行した政治的手腕家であった。常民は幼名を鱗三郎といったが、11歳のとき、藩主の侍医佐野孺仙こと常徴の養子となり、9代藩主の鍋島斉直から栄壽という名をいただいた。後で栄壽左衛門と改めたわけである。
 養父の佐野常徴は藩主に隨行してよく江戸に行ったが、常民はその留守中は早津江の生家に預けられ、ここから藩校の弘道館の外生となって通学し、内生となった後は寄宿寮で起居した。一般に内生の生徒は15、6歳以上であったが、常民は14歳で入寮したのである。学科は論語、孟子、経史などの漢文が主であったが、常民はいつも張玄一と首席を争う勉強をしたという。天保8年(1837)、16歳のとき、江戸にいた養父のところに行って佐賀出身の名儒といわれた古賀侗庵の塾に入門したが、天保10年(1839)、9代藩主斉直が江戸で亡くなったため、常民も養父といっしょに帰郷し、弘道館で学ぶほか、松尾塾で外科医術なども修業した。天保13年(1842)の冬、佐賀藩士山領丹左衛門の娘で、常民よりも早く佐野家の養女となっていた駒子と結婚したが、どちらも同年の21歳であった。
 弘化3年(1846)、侍医の牧春堂に隨行して京都に遊学、広瀬元恭について蘭学と化学を勉強し、嘉永元年(1848)には大阪で緒方洪庵の適塾(適々斉塾)に入門した。塾生32人のうちには長州の村田蔵六(後の大村益次郎)と広沢真臣、薩摩の松木方庵などがいたが、あとで明治維新後、佐野常民が兵部少丞となったのも兵部省の実権を握っていた大村益次郎の推挙があったからだろう。続いて嘉永2年、藩主の命で江戸に転学し、戸塚静海や神埼出身の伊東玄朴の象先堂塾に入り、伊東の高弟としてその代講までするようになったのである。
 この象先堂塾で常民が学んだのは物理、舎密(化学)、築城術、冶金など、医学よりも科学、軍事学に力を入れたが嘉永4年、藩主の命で帰郷の際、京都に立ち寄って広瀬元恭の塾で知り合った化学技術者の中村奇輔、理化学に詳しい石黒寛次、西洋器械学に長じた久留米出身の田中近江と儀右ヱ門親子の4人を同伴してきた。この4人は佐賀藩の反射炉や大砲の製作に画期的の功績をあげたが、嘉永6年、常民は藩主から医者をやめて精煉方主任になることを命じられた。名前を栄壽左衛門と改め、また医者の坊主頭もやめて髪をのばしたのもこのときからであった。
 こうして安政2年(1855)には佐賀藩の本島藤太夫と長崎に行って造艦、航海、砲術の学科と実習に励み、安政4年には飛雲丸を買い入れてその船将となった。薩摩に行って、自製の電信機を島津斉彬に献上したのもこのときである。安政5年には三重津で晨風丸が進水したが、ここでも常民は航海術を練習したり、またオランダから電流丸を買い入れたりした。万延元年(1860)には幕府から觀光丸を佐賀藩が預かって、常民がこの船将となったが、文久元年(1861)には三重津に汽罐製造所を建てた。これが佐賀藩海軍所の端緒だが、ここで常民が代表となって長さ60尺、幅11尺、10馬力の木造外輪船の建造に着手し、慶応元年(1865)竣工した。これを凌風丸と名づけたが、これが日本人だけの手で造った最初の汽船といわれる。
 また慶応3年、パリで万国大博覧会が開催されたが、佐賀からは藩命によって佐野常民を代表に、野中古水、小出千之助、深川長右工門、藤山文一の5人が使節として出席した。あとで佐野が日本の博覧会に力を入れたのもこれが因縁となったわけである。一行は有田の陶器や烏犀円などの薬材、海産物などを持参し、博覧会で売ったりした。佐野はこの機会にオランダに行って軍艦日清丸を注文し、更にイギリスにも渡って慶応4年春、日本に帰ってきたのである。
 明治維新後、2年7月8日、4度目の官制改革があって軍務官が兵部省となった。兵部卿が有栖川宮熾仁親王、兵部大輔が大村益次郎(大村の暗殺後は前原一誠)、兵部少輔が山県有朋、兵部大丞が川村純義と山田顕義が就任したがこの下に権大丞、小丞、権少丞などがあり、佐野は兵部少丞となって日本海軍の新設に建白することが多かった。ところが当時、薩長藩閥の勢力争いが激しく、佐野が横浜の外商から買い入れた帆船の諸器械のことで無実の噂を伝えるものがあり、佐野の旅行中に兵部少丞を被免したのである。あとで外商との契約破談にこの外商が返金した金額が契約通りの金額であったから佐野も青天白日の身となったのである。翌明治4年、佐野は改めて工部省に入り、権少丞から少丞、更に大丞兼灯台頭となった。観音崎、犬吠崎、汐の岬、下田の神子元島の灯台などはみな佐野が灯台頭時代に立案したものであった。続いて明治6年に、明治10年に日本で初めて開催する第1回内国勧業博覧会の副総裁を仰せ付けられたが、総裁は同じ佐賀出身の大隈重信参議であった。この年、オーストリア・ハンガリーから万国博覧会の政府招待があり、佐野は墺国博覧会理事官に任命された。このため、佐野はオーストリア・ハンガリー及びイタリア派遣の弁理公使として明治6年から7年にかけ、出先の各国皇帝に信任状を奉呈したが、このときは日本の工芸美術家など、一行合計70余人という大掛りなものであった。明治7年に起こった佐賀戦争当時、佐野は遠く海外にいたわけである。帰国後、明治8年7月、佐野は元老院議官に叙されたが、これは閑職だろう。佐野がいちばん活躍したのは、明治10年西南の役が起こったとき、敵味方の傷病者を治療救済するため、大給恒と博愛社を創立して数千人の傷病兵の手当てをしたのである。これまで日本の戦争では敵の傷病兵を看護するなどは絶無であった。この博愛社が日本赤十字社の基礎となったのである。これとまた内乱中にも拘らず、佐野は予定の第一回内国博覧会も上野で10年8月21日、滞りなく開会して明治天皇の御臨席を仰いだのである。
 このほか、佐野は美術工芸の振興をはかって、上野の不忍池畔の天竜山生池院を会場に龍池会をつくった。これは明治7年、佐野がオーストリア・ハンガリーの万国博覧会に行った際、イタリアでラファエルやミケランジェロや、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの名画や彫刻をみて深く心を打たれて以来の関心事であった。当時は狩野法印が上野博物館の老雇員をしたり、弟子の橋本雅邦が1本1銭で扇面に山水画を描いたり、また狩野芳涯が郷里に帰って養蚕と妻が荒物屋をやって飢えをしのぐなど、画家たちが貧窮のどん底に落ちた時代であった。龍池会はこうした美術工芸家たちの貧窮を知った佐野がこれを救済するためにつくったものだが、後に明治20年、日本美術協会に発展した。これも佐野が最後まで会長をつとめたが、会員数も創立当初の19人から、佐野が亡くなった明治35年には1440人に増加したという。
 この間、佐野は明治11年に勲二等に叙せられ、12年には中央衛生会長となった。また13年2月、従来の参議と各省長官の卿の兼任が廃止となって、参議兼大蔵卿の大隈重信が大蔵卿の兼務と解任になると、佐野が大蔵卿に就任して14年10月まで続けた。この明治14年10月は参議の大隈重信を藩閥政府が追放した大政変の起こった年月である。佐野もこのとばっちりを食って大蔵卿を追放されて、元老院副議長にまわされ、翌15年には元老院議長、勲一等となった 明治18年7月は亜細亜大博覧会組織取調委員長を仰付けられ、12月には宮中顧問官、20年5月には子爵に列せられた(28年に伯爵)。またこの年、博愛社は日本赤十字社と改称してその社長に佐野は当選し、続いてこの日本赤十字社もはじめて万国赤十字社に加盟したのである。この年、佐野は枢密顧問官に任命され、25年は第一次松方正義内閣で河野敏鎌の後任として農商務大臣をつとめたが、選挙大干渉の責任を負って松方内閣が総辞職したため、佐野の農商務大臣は1ヵ月足らずで終わり、再び枢密院顧問官に戻った。
明治27、8年の日清戦争では、日本赤十字社が1400人の救護員と養成済みの看護婦100余人、速成看護婦617人を動員して東京や広島の陸軍予備病院で傷病兵の看護に当たらせ、また明治33年の北清事変には、30年から建造に着手した弘済丸と博愛丸の病院船2隻を清国の太沽沖に停船させて各国を驚かせたのである。明治34年には佐野も既に80歳の高齢に達したが、この年、東京の日本赤十字社の本社中庭に佐野の銅像が建った。佐野が生涯に働いた功績は海軍の建設、美術文芸の振興、博覧会の開催による殖産興業の奨勵など数限りないが、わけでも特筆すべき最大の功績は日本赤十字社の創立と発展に全力を投球したことである。明治35年1月には駒子夫人が静養先の沼津で亡くなり、12月7日には常民も亡くなった。ともに同年の81歳である。この明治35年10月には日本赤十字社が博愛社として創立した25周年記念祭も行われたが、このときは全国会員数も80万人に達していた。最後に佐野が作った漢詩を紹介したい。
    余時管海軍創立事  雪津佐野常民
○壮一成團廿五人  平郊盡處再迎春 長流達海千年水  巨艦列檣三重津
 大小帆量風力展  縦横陣冐雪威振 錬磨熟亦辞酸苦  同是丹心報国身
○汽艦艤来十一秋  海軍創隊日勤修 先鞭奚啻我皇国  期向五洲争最優
 この漢詩は、晩年の佐野が三重津の海軍所跡を訪れて往事茫々、懐旧の情に堪えなかったのを詠んだものである。佐野は雪津と号したが、6つ年下であった副島種臣とともに佐野も気品の高い詩を作った。

【事務局情報:漢詩文字について、正しくは、1行目の「一」は「士」、7行目の「錬」は「練」、「熟」は「孰」。また、漢詩現物の表題は『三重津海軍場偶成』となっています。】

出典: (川副町誌P.983〜P.989)