弥富元右衛門

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弥富元右衛門

■所在地佐賀市川副町
■登録ID2065

 早津江の「金善」といわれた屋号の弥富家は、古く鍋島藩政時代から200年も続いた佐賀屈指の富豪であった。『鍋島直正公伝』の第五編の「海軍費利殖と長崎貿易商の競起」の項目に次のことが書いてある。
 「野中(元右衛門、烏犀圓本舗)と共に仏国に渡航したる深川長右衛門は、外貌遲鈍なるがごときも、内に詳審機敏なる商才を具し、因て用達商弥富元右衛門に後援せられて長崎に雑貨貿易を始めたり。弥富は諸富津に拠りて久留米と米の糶糴(米の賣買)を競ひ、他の貨物を吐納(出し入れ)して、大河口の利権を占めたる一方の雄鎮たり」と書いてある。早津江の弥富家はこうして佐賀藩だけに限らず、福岡、久留米、柳川など諸藩の御用達も勤めたらしく、また佐賀、神埼の両郡のほか、杵島郡の福富村一帯にも多くの小作地を持っていた。
 明治維新後、弥富家は引続き金融業、大地主や清酒「栄城」の酒造業と、島原半島に及ぶ干拓など、手広く活躍した。大正4年には弥富寛一氏が資本金50万円の肥前銀行も創立したが、これは大正13年、佐賀百六銀行に吸収合併された。藩政時代には鍋島閑叟公がお忍びで休息に参られた場合の茶室もこしらえたほどの豪勢な弥富家であったが、百数十年の間に2度の困難な場合にぶつかったのである。最初は天保13年(1842)、佐賀藩が「一統平断」といった、俗に「借銀ばったり、加地子ばったり」である。
 これは佐賀藩内の農家、特に小作農が度重なる風水害や連年の不作、凶作と重税に四苦八苦しているのをみた閑叟公が、田代領や唐津領などに起こった百姓一揆なども顧慮して、向こう10ヵ年間、藩府からの貸付金一切を無期限の出しっ切り、また民間の借銀と小作米も支払いと供出を猶予する布令を出したのである。この当時多くの地主たちは鍋島閑叟公を暴君と陰口をたたいたという。加代子というのは小作米のことだが、これで小作農たちが大助かりをした反面、弥富家のような大地主は大打撃を受け、藩府当局に大地主たちが連名でこの緩和方を嘆願した。この記録は小野武夫博士の「旧佐賀藩の均田制度」に詳しく書いてあるが、この「借銀ばったり、加地子ばったり」が完全に解決したのは明治20年であった。
 大地主としては、戦後の農地改革よりも厳しかったが、明治以後も大地主であった弥富家が致命傷を受けたのは終戦の昭和20年12月進駐軍が指令した農地改革であった。「売家と唐様に書く三代目」と川柳にあるが弥富家は三代よりもずっと永く続いた。弥富家に残った藩政時代からの記録3千数百点が、いまは貴重な歴史的資料として佐賀県立図書館に保管されている。

出典:川副町誌P.981〜P.983