足踏水車

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足踏水車

■所在地佐賀市川副町
■登録ID2049

「汲桶」はやがて「足踏水車」にかわる。一般に「ふみぐるま」というが、この発明は揚水作業に大きな変革をもたらした。文字どおり、足で水車の羽根を踏んで連続して水を押し上げるので、汲桶とは比較にならぬ能率であった。中国からの輸入とする説もあるが、おそらく国産であろう。江戸時代の著名な農学者・大蔵永常は、その名著『農具便利論』(文政5年・1822年)のなかで、この踏車の発明者を大阪に住む京屋七兵衛と同清兵衛だとし、年代を寛文年間としている。1661年から1672年のことである。もっとも永常の時代の「ふみぐるま」は、今日見られるものとはかなり異なっている。当時は小型で次の3つの型があった。
 四尺五寸 (136cm) 羽根13枚
 五尺   (151cm) 羽根14枚
 五尺五寸 (166cm) 羽根15枚
この小さなのは「踏車」といいながら、実は手廻しで、田面と水面の水位格差が余りないところで使った。足踏用のものも小型で羽根も14〜5枚であった。
 しかし佐賀平野のように深く広い堀で、しかも水位差の大きい所ではこれは役に立たない。大幅な改良が必要であった。その改良と製作に成功したのが、筑後の大莞村(現大木町)の猪口万右衛門であったといわれる。この人は元文7年に生まれ文化8年(1739〜1811)に亡くなっている。おそらく1760年代にその改良に成功したものと推定される。前記七兵衛らの考案より約100年が経っている。
 佐賀への普及もこれからはじまったと考えていい。たとえば牛津町の商家『野田家日記』(西日本文化協会刊)によると、安永3年(1774) のところに「此の年より水車始まる。以前は釣桶かっぽふなり」と記してある。この「釣桶かっぽふ」というのは「くみおけ」のことである。佐賀での踏車の普及がここにはじまったと考えていいであろう。そしてこの踏車の普及は急速であった。それから25年たった寛永12年に幕府の役人が領内を視察した際の記録『巡見録』によると、巡視の役人が水汲みは「踏車が早く候か打桶が早く候か」と質問しているのに対し、神埼郡東野ヶ里の庄屋が「車にて踏み候が早く御座候」と答えている。だからこの寛永の時期はすでに「踏車」が急速に「汲桶」を駆逐して普及した時期と考えていいであろう。
 筑後で開発された踏車は、今日見られるものとほぼ同一のもので、五尺五寸(166cm)と六尺(181cm)の2種類、羽根も17枚から18枚であった。一枚の羽根はおよそ五升(9㍑)ほどの水を汲み上げるから、その威力は当時としては革命的なものであった。揚水に悩み抜いた佐賀平野の農民がいち早くこの踏車を導入したのは当然であろう。
 ただ問題は価格であった。当時の資料によると踏車1台の価格は60匁。中古品でも35匁であった。60匁というと当時米一石の価格である。四斗俵で二俵半。かなりの値段である。千歯が1台12匁。その千歯でさえ購入できなくて、なかには自分で竹子歯を作って使用したものが多かったという。その千歯の約5倍というとかなりの高価格であったろう。それでも無理算段をして踏車を購入したのは、少しでも揚水労働を軽減しその能率をあげたい一心からであった。おそらく米二俵半分の踏車の代金をひねり出すのに、当時の農民は四苦八苦したと思われる。
 さて、こうして登場した踏車は、江戸中期の後半にかなりの勢いで普及した。踏車はもっぱら木工細工が古くから盛んであった大川で生産され、筑後川を渡って佐賀に持ち込まれた。鍋島領内で生産されたのはかなりのちのことになるようである。明治期になっても、踏車を購入するため筑後川を渡り、それを荷なって帰ったという話は、平坦部ではよく聞かれる。犂の職人は古くから村々に点在していたが、どうも踏車の製作はこちらでは行われていなかったと推定されるのである。
 さてこうした踏車も、なるほど「クミオケ」に比べると能率はいいが、しかしいぜん、苦汗労働であることにはかわりなかった。とくに盛夏、焼けるような太陽に照らされ、朝から晩まで水車を踏まされるのは大変であった。この揚水労働は明治になってからはもちろん大正期に至るまで延々と行われるが、当時の踏車の苦労をある古老は次のように述べている。
 「普通水車ヲ一台、盛夏ニナッテ水位ガ下ルト二段。旱バツノ時ハ三段ニイタシマンタ。三段ニ水車ヲカケマスト普通夫婦二人ノトコロデハモウ一人誰力来ナケレバヤッティケマセン。二段ノ場合デモ下ノ車ガ水イッパイニツカッテ居レバ楽デスガ、羽根ガ半分位シカツカッティナイ時ハ大変重イノデ、学校二行ッテイル子供ガ帰ルトコレヲ前ニノセテ踏マセマス。ソウスルト大分楽ニナルノデヨク子供ヲノセタモノデス。処ガコレガ毎日ツヅクノデソノ骨折りハ並大抵ノコトデハナク、平坦部ノ農家ニハ嫁ニハヤラヌトマデイワレマシタ。ソレハ傘ヲサシテ子供マデ水車ヲ踏マセナケレバヤッティケナイカラトイウワケデス。本当に水車踏ミハ大変ニキツイ仕事デ、ソノタメ冬中二身体ヲツクッテオカナケレバ水車踏ミハデキマセンデシタ。コノタメ薬モ沢山用意シテオキマンタ。烏犀圓ノヨウナ精分強メノ薬ガナイト身体ガモタヌノデス」
 踏車労働の苦しさを語って余りないであろう。文中の二段がけとは、盛夏に堀の水位が下がって踏車の揚程が足らなくなると、2台の踏車を用意して揚水することを指す。つまり堀の壁に水の溜まり場をもうけて先ず1台でここに汲み上げる。この中継の溜まり場を「チヨク」あるいは「ボク」といった。そしてさらに別の1台でこれを田に汲み上げるのである。古老がいっているように、2台の水車と2人の労働力が必要となる。
 さらに旱ばつとなって水位が下がり、2段がけで揚水できなくなると、水車3台をかけなければならない。これを3段がけといった。いうまでもなく3台の踏車と3人の働き手が必要であった。平坦部に多くの年雇がいた理由の1つである。
 以上のように川副では、農業用水はかけ流しの自然灌漑ではなく、低い堀からわざわざ汲み揚げた。したがって水は大変に貴重なものであった。かけ流し地帯では想像もつかない手間暇がかかっているからである。

出典:川副町誌P.485〜P.488