権現講

権現講

■所在地佐賀市川副町
■登録ID2035

 肥前の英彦山権現に対する信仰は厚く、江戸時代に鍋島氏が建造寄進したものには、上宮・中宮・下宮の神社をはじめ、銅鳥居などがあって、上宮の拝殿は佐賀の方に向かって立っているともいわれる。このため一般庶民の英彦山参拝の習慣はヒコサンミャーイ(英彦山詣り)として、佐賀平野の各地に根強く残っている。春先の農閑期を利用し講仲間の代表2、3名が、吉井・田主丸・甘木付近と小石原に宿泊し、英彦山では知り合いの坊に泊まり、上宮まで参拝して帰参する。帰りには、お札・飯杓子・英彦山ガラガラ(魔除けの土鈴で門口に下げる)をうけ、さらに上宮裏から熊笹を採ってくる。道免は戸数48戸であるが、2組の講仲間が現存し、3月15日頃にヒコサンミャーイに行く。帰参すると当番の家で寄り合って飲食をし、お札等を配る。英彦山参拝に出発すると、女達は陰膳をして、無事な帰参を祈ったという。
 上宮裏の熊笹は、農耕馬の腹具合の悪い時やセンツー(糞づまり)などの時に食べさせるとよいとされた。英彦山で宿泊する坊のヤンボシ(山法師)さんは、正月頃に川副まで来て、家々を回り、悪魔祓いをしていった。
 英彦山には300程の坊席があったとされ、各坊席では秋の取入れ後にコメホーガ (米奉加)、麦の取入れ後にはムギホーガ(麦奉加)として、各家を訪れて経文を唱えていた。各家では米や麦を差し出していたが、コメホーガは必ずといってよいほどなされていた。
 また、都合が悪くて英彦山への参拝が不可能の場合は、佐賀市嘉瀬町徳善院に参詣するともいわれる。

出典:川副町誌P.780〜P.781