川副のえびす

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川副のえびす

  • 川副のえびす

■所在地佐賀市川副町 西船津、北早、中早、新町、南早
■登録ID1996

1.西船津のえびす
現在の西船津・船津・佐房は「船津村」として一村であったが明治22年の行政改革によって出きたものである。(宝暦郷村帳による)
佐賀藩の八田江筋の行商港として与賀船津に渡る渡船場もあり、大変にぎわった所である。
 堤防添いに水産業者の店舗が並んでいた様子は、西船津の堤防から東へ下る6本の通り(小路)の各角に「恵比寿」が祀られている。恵比寿は、福徳神として崇められ、豊魚の神として広く祀(まつ)られている。当時は、宿場も出来、現在の北川副町の八田宿に通じていた。現在も、夏の祇園祭として、それぞれ班別に8月10日を前後として催されている。
 八田江は、北川副町八田付近から西船津・船津・左房及び東与賀町今町などの集落を通って有明海に注ぐ感潮河川(江湖)であり、現在、数ヶ所に蛇行の痕跡がある。慶長絵図では、上流部は袋・末次(現在の本庄町)の間を蛇行し流れている。
大正4年(1915)刊の「佐賀郡誌」には、「八田江は旧藩時代にありては、毎年数回の公役として、与賀郷・川副郷から数百人の出夫をなし、泥土掘取工事怠りなく、然るに廃藩以来、現今に於いては、泥土、年を這うて埋没し大に変化を来したるは、実に遺憾なり」とある。

2.早津江のえびす
 「早津江の街並みは南北に長い。これは早津江川の自然条件によるもので、街を大別すると3つに分けることができる。」と佐賀の郷土史家である福岡博氏(佐野常民記念館名誉館長)は「早津江の歴史」で語っている。「北は宗教地区といわれて神社・仏閣が多い。南は海上生活地帯で往時は回漕業、船乗業、漁業の船がひしめいていた。中間地帯が商業地帯で、物資集散のためにまとめられた地区。(中略)早津江は狭い土地にもかかわらず人口が周密であった。」
 南北に、佐野常民記念館西隣り・早津江タクシー会社から早津江橋下辺りまで、旧市街地の中央を貫く本通り筋を中心に、東の新町筋を含む往時の商業地帯にたくさんの「街角えびす」が祀られている。
 JAバンク東南角に「西宮」と文字を彫りこんだ「文字えびす」が建つ。通りを隔てたO氏宅には「家付きえびす」が鎮座するが、住居の新築に合わせてえびすさんの住まいもこのほど新しくなった。N店の角には昭和生まれのえびすさんがあり、南隣のNさん宅のえびすさんと仲良く、手厚く祀られている。
 新町筋のFさん宅角のえびすさんは、お顔を失くしておられるが、榊が添えられた祠住まいで大切に祀られている。E氏宅北東角には平成生まれのえびすさん、その南隣のT氏宅には台座を含む150cmの大きなえびすさんが鎮座する。早津江川の土手に上がると、金比羅さんと並んで運慶流(?)かと見まごう芸術的な造形のえびすさんが鎮座する。
 台座のみを残す「雲隠れえびす」などを含むと、現在この街角で見ることができるのは10数体。商家の移転や道路の拡張などに伴って、消失したえびすもあるが、志賀神社に移祀されたものも多い。石作りの社を持つ「家付きえびす」はじめ20体が志賀神社境内に祀られている。他に風雨に刻まれて識別困難なえびすさんが合祀されている。
 佐賀藩海軍所の遺跡や佐野常民に詳しかった地元の研究家・水町俊輔氏(故人)は、早津江のえびすさんについても記録メモを残した。水町氏は「明治6年(1873)、早津江が一番栄えたと思われる当時の貴重な遺跡として、2002年に「早津江だけで約30体」(志賀神社分を除く)を数えている。」と。
 人や物資の交流が海上交通を主とした時代の早津江の繁栄を今に伝える「えびす」である。往時、軒を並べる商家は競って店角や店内の土間に、海の安全を祈り商売繁盛を願うえびすさんを祀った。商店の数ほど祀られたえびすさんは90から100体に及んだと伝えられる。
 
☆取材協力 志賀神社、田代英臣、副島佳久

※写真は金毘羅社横の早津江のえびす

出典:「宝暦郷村帳」「川副町歴史講座テキスト 川添実明氏」「佐賀郡誌」「佐賀藩海軍所の遺跡について」(水町俊輔)、成人学級テキスト「川副町の風土と歴史/早津江の歴史」(福岡博)