神野、堀江通り商店街の今昔

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神野、堀江通り商店街の今昔

■所在地佐賀市天神二丁目・神野東一丁目〜三丁目・神野西一丁目〜三丁目
■登録ID1929

 昭和6年(1931)、都市計画の一環として与賀町〜川上線の拡幅街道が整備されることが決定され、永年にわたる拡幅工事が進められた。特に、招魂社(現護国神社)から高木瀬第55連隊までは軍用道路として、急いで整備された側面もあるようだ。現神野変電所付近から川上まで、馬鉄が設置されていた。一説では、諸富から川上まで鉄路が敷設されていたという。
 その街道沿いに個人商店が出店し、自然発生的に商店街を形成した。
 昭和16年(1941)頃、大和紡績佐賀工場ができ、昭和25年(1950)を中心に1,000名以上の女工さんが寮生活をし、工場内に女子高校ができていたという。
 国鉄線路は、佐賀駅の移転までは、現多布施川鉄橋から九電変電所の南側を経てエスペランサマンションの南駐車場、アーサーマンションの建物の敷地を経由していた。佐賀新聞社の北側には、今でも、線路敷地、鉄橋の橋脚護岸が残っている。旧佐賀駅は駅前交番の西で大きい交差点のところ、「一粒300メートル」のグリコの看板塔があって目立っていた。
 また、国鉄線路の踏切の南を紡績通り、北を堀江通りと称した。現国道の西の河川を堀江川といい、昔は今の倍以上の広さがあり、じゅぶ台で魚をとり、たなじで鍋、釜を洗い、洗濯がされていた。
 国鉄踏切の北側には、青果市場が3か所あり、早朝3時〜4時から大勢、近郊の農家の人々が農作物をリヤカー、車力などに積み持ち込んできた。それを「といやだし」と称していた。市場からその出荷代金を受け取り、帰りに商店街で買い物をした。そのため、堀江通り商店街の開店時間は早かった。
 大正時代、昭和初期、堀江通り沿いには各地から出店が相次ぎ、古川活版所、徳島呉服店、竹下陶器店、七田自転車店、松尾たたみ屋、篠原傘屋、江口お菓子屋、小寺薬屋、神野郵便局、数軒の衣料品店、青果店、鮮魚店、桶屋、鍛冶屋、銭湯、酒屋など続々と商店が軒をなし、昭和の終戦後は、紡績通りを入れてその数200軒をゆうに超える大商店街を形成し繁栄していた。また、紡績通りには、西田醤油、高取薬局、スーパーのハシリもりながや、田中かまぼこ店、いろは肉屋、旅館などもあった。
 また、国鉄踏切が国道を横切り、長崎本線、唐津線、貨物車の入れ替え、大和紡績への物資出し入れの引き込み線などに貨車が出入りして、踏切の遮断機の上げ下げが頻繁で、トラック、バス、自動車、荷馬車、人とも、南北行き来できる時間が少なく、「開かずの踏切」と称された。
 終戦後、進駐軍のジープ等も多く、シガレットサービスと声を掛けると、ガムなどをくれることもあった。
 夏の夕涼み時には、国道沿いに各家からばんこを持ち出し、近所集いうちわ片手に囲碁、将棋、世話話など一時の涼を楽しんだ思い出がある(昭和30年頃まで)。
 商売人20名前後相集い、たのもし講が各地で行われ、夕食を共にし、昼の疲れを癒すとともに、持ち寄った数十万円を入札による順番で借り、商売の運転資金としあったし、今でもその流れは散見される。親睦会として三夜待ちは今でも行われている。
 国鉄貨物の物資の運搬は、もっぱら荷馬車が使われ、空になった荷車にぶら下がったりして遊んだ(昭和22〜23年頃)。現はがくれ荘の北、アーサーマンションあたりに貨物車の集積場があり、現道路南側に運送会社が数軒あり、荷馬車が行き来していて、馬糞が道路上に落ちていた。
 旧佐賀駅には操車場があり、蒸気機関車の向きを変える作業が面白かった。
 草場、現九電ビルの所に佐賀県農事試験場があり、農事参観デーの期間は多くの参観者が列をなした。西側の流れ小川の水は清く、蛍の見物に出かけていた。
 草場天満宮についても、その歴史、謂れなど今は知る人はない。草場の現坂本アパートあたりに神野劇場があったとされるが、今は知る人もない。
 ちなみに、神野区画整理事業(昭和30年〜40年頃)、佐賀駅の移転(昭和51年頃)。
 国道264号線の二度にわたる拡幅工事などで、前述の三青果市場は移転し、鉄道高架のおかげで便利になった一方、商店は移転、廃業が相次ぎ、草場区は永年居住の人と最近入居された人が混在している状態。ちなみに、高層マンション林立の中で、佐賀で一番にできたマンションは、草場の中央青果市場の跡地に立ったエスペランサ1号館である(昭和45年頃と思われる)。
 旧佐賀駅前にあったロータリーの「一粒300メートル」の看板塔も懐かしい。
 昭和28年大水害の時は、堀江通りの自宅は床上浸水などで畳を上げた思い出がある。
 佐賀駅移転前の線路の跡、鉄橋跡(現佐賀新聞社北側)は今も判別される。
 高木瀬の現佐賀市文化会館、県総合体育館の所に第55連隊の陸軍兵舎があり、堀江通りでは、陸軍軍隊の行軍訓練の隊列が見られた思い出がある(昭和20年以前)。現県総合運動場は旧軍隊の広大な練兵場であったが、兵舎は終戦後大陸からの引揚者の宿舎となり、協楽園と称された(昭和34、5年頃まで)。
【商店の慣わし】 正月初荷 お盆薮入り 11月〜12月 誓文払い
         徒弟制度(弟子入り) 旦那、番頭、若頭、小僧、丁稚、奉公
  残念ながら、二度にわたる国道拡幅事業、神野区画整理事業、郊外型商業施設などで、紡績通り、 堀江通りの商店街の繁栄の面影はない。

出典:神野校区草場自治会会長 松尾宰男 氏

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