米搗きの水車

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米搗きの水車

■所在地佐賀市神野
■登録ID1913

 山村、山麓で多く見られた水車が、多布施川流域に5か所もあった。今は、電気で精米したり製粉したりするが、昔は水車でしたものである。
 多布施川は、人工河川で両側の田圃より川床が高く、潅漑用水に利用された関係で、多布施川から取水した用水路を利用し、水車の設置場所を深く掘り、水の落差を利用して水車を動かした。この水車は、大正末期電気精米が出現するまで使用された。
 5か所の水車小屋の位置と経営者は、小柳氏(神園3丁目古賀四郎氏宅)、大塚氏(栴檀橋東側)、瀬戸口氏(神園4丁目)、山崎氏(多布施鉄橋東下)、岩橋氏(天祐寺川中高橋東)であった。
 水車の経営は勝手にはできなかった。明治14年(1881)12月に「水車取締規則」が県(当時は長崎県)から出された免許が必要であった。規則には「方三十間以内居住の人民及び飲用水又は作用水は勿論、水利上障碍なき旨関係人民又は其の人民総代の承諾書を添ふべし」とあり、今のような企業優先ではなく、地域住民の生活環境がよく考えられていた。

出典:神野p167(神野小学校100周年記念誌)