佐賀紡績株式会社・大和紡績株式会社佐賀工場

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■所在地佐賀市天神三丁目2-10(駅西)
■年代近代
■登録ID1896

 大正5年(1916)12月、地元の有志によって佐賀紡績株式会社が、資本金300万円で創立された。大正9年には男子300名、女子1,200名の工員を擁する大工場となった。当時の佐賀市郡の企業の中では、最大規模の工場であった。しかし、その後の不況で業績が悪化、大正末期には操業が停止された。
 昭和3年(1928)4月、錦華紡績株式会社に買収され、同社佐賀支店(のち同社佐賀工場)として、操業が再開された。
 昭和16年には、錦華紡績(株)、日出紡績(株)、出雲製織(株)、和歌山紡績(株)の4社合併により、大和紡績(株)佐賀工場となった。
 大和紡績株式会社(本社:大阪市)は、資本金50億2,000万円、年商1,015億4,000万円(昭和56年度)の繊維の総合大手メーカーであり、従業員約5,000人(うち佐賀工場650人)であった。綿布、スフ綿、綿糸のほか合繊布の生産も多かった。
 大和紡績(株)佐賀工場の操業は、戦中・戦後を通じて盛んに行なわれ、最盛期(昭和25年頃)には、従業員数(組合員のみ)は2,000名を超え、そのうち女寄寮には1,430名の女子工員さんたちが働いていた。
 しかし、その後の繊維業界の再編等により、次第に工場の規模も縮小され、ついに昭和61年3月、同社佐賀工場は閉鎖になり、約70年の歴史を閉じることになった。
 現在、その工場跡地は、「どんどんどんの森」として、市民に親しまれている。
【思い出】
 昔は、(神野小学校の)運動場から紡績の工場を写生することができた。また、工場と長崎本線の線路の間に蓮堀(佐賀では蓮根堀という)があったが、神野小卒業生の中には、あの蓮堀に思い出のある人もあろう。
【〝紡績通り〟の名称の由来】(現国道264号線)
 大正5年12月に、現在地に佐賀紡績工場が設立された。工場が整備拡充されるにしたがい、当時の佐賀にとって、最大の工場として地元民の関心を集めた。
 当時は人が通る程度の道があったが、道路も混雑するようになり、次第に道幅も広くなっていった。
 その後、通称〝貫通道路〟がつくられ、佐賀市街を東西に通ずるようになり、この通りと連結されると、次第に市民が紡績工場の隆盛を期待し、愛称として〝紡績通り〟と呼ぶようになり、今日まで引き継がれてきたものである。

出典:・神野p.173(神野小学校100周年記念誌)・佐賀県大百科事典・大和紡績(株)佐賀工場の記念パネル

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