佐賀競馬場

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佐賀競馬場

■所在地佐賀市神園3丁目
■年代現代
■登録ID1892

 西神野(神園3丁目)に競馬場ができたのは昭和4年(1929)5月である。競馬場の総面積は11,000坪、馬場6,300坪、建造物570坪、走路1,000m、幅員16mで、その頃では九州屈指の模範競馬場であった。昭和14年(1939)までは毎年春秋2回の競馬が開催されたが、支那事変の拡大とともに馬の重要性が再認識され、昭和15年(1940)11月7日に軍用保護馬鍛練場となり、鍛練馬競馬が開かれたが、これはそれまでの競馬に比べて面白くなかった。昭和16年(1941)12月8日太平洋戦争が起こり、昭和18年(1943)には鍛練馬競馬は中止、場内の施設は市内の軍需工場、新聞社等に貸与され、走路は野菜芋畑となった。
 昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争は日本の敗北に終わり、国民は絶望と虚脱感に陥り、食糧事情は極度に悪化した。世の中は混迷と混乱の渦につつまれたが、一般の馬事愛好者がたち上がり、県と占領軍の許可を得て、昭和21年(1946)10月17日から4日間競馬を開催した。
 昭和23年(1948)競馬は公営となり、大水害等で災害を受けた町村は、競馬益金の配当を受けるようになった。
 しかし、競馬場付近には多布施川、神野公園があり、遊びに来る人も多く、競馬の開催回数の増加にともない開催時における人、馬、自動車等の洪水で大混雑をするようになった。また、競馬場周辺には人家もふえ、朝夕の通勤通学にも支障をきたすようになり、いろいろ問題が出てきた。そこで鳥栖市に移転することになり、昭和47年(1972)新競馬場完成、西神野競馬場は、この年の2月末で廃止されるに至った。
 戦後も、農家では馬を使用していたが、農機具が次第に機械化され、馬の姿を見ないようになった。小学校の児童の中には、馬は映画やテレビの西部劇で見るくらいで、生きた馬を見る者はないようになったが、神野小学校の児童は、競馬場の閉鎖されるまで生きた馬を見ていたのである。

出典:神野p169

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