古賀廉造

  1. 人物
  2. 人物
  3. 検索結果
  4. 古賀廉造

古賀廉造

■所在地佐賀市高木瀬町
■年代近代
■登録ID1826

安政6年の生れにはあらずやと思ふ。明治7年佐賀戰爭に際しては、16歳以下の少年武士を以て編成せられし、少年隊に入隊し、憂國黨の司令、大塚左源太の指揮下に各所に轉戰。田手川の激戰には、左源太、壮烈なる戰死を遂ぐる迄終始その叱咤の聲を耳にせりと、親しく余に話されし事あり。戰後、年少の故を以て罪を免ぜらる。以来、司法省法律學校卒業、大審院検事、法學博士の學位を得。内務省警保局長として、全國の警察を統轄指揮するに當って、その彈壓、辛辣を極めしは有名なり。貴族院議員に勅選せらる。拓殖局長官を最後に、總ての官公職を辭し、千葉縣御宿に陰棲。昭和9年の秋、飄然、萬部島招魂場を訪れ、記念碑參拝の後、鯱の門に至り、城壁、石壘を指示して、往年接戰奮闘の状を語られしが、今日回顧すれば実に貴重なる実戰談なりしなり。
 昭和19年房総の漁村、草庵に、溘焉として逝く、87歳。
昭和癸丑初秋     西陲残叟記
 
※古賀廉造の生年は安政5年(1858)、没年は昭和17年(1942)で享年85歳であることを追記する。

出典:高木瀬町史P84〜85