島義勇

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■所在地佐賀市金立町
■登録ID1771

1822.9.12~1874.4.13(文政5~明治7)。政治家。佐賀城下精小路(現在、佐賀市与賀町精小路)佐賀藩士島市郎右衛門有師の第一子として生まれ、9歳で藩校弘道館に入学した。23歳で卒業して諸国に遊学、とくに、水戸の藤田東湖と親しく交わった。26歳で弘道館目付、藩主閑叟公の外小姓となった。35歳のとき、閑叟公の命により北海道、樺太の探検を行なった。1858年(安政5)長崎港外香焼島守備隊長となり、1864年(元治元)御船方から観光丸(幕府所有の預かり船)船長、1868年(明治元)2月、軍艦奉行となった。同年5月、朝命で陸軍先鋒参謀の佐賀藩兵付となり、関東の総野(下総、上野=現在の栃木県今市市付近)で転戦し7月、下総・上野鎮撫軍監から江戸鎮将府会計局判事、民政掛徴士、鎮台府判事、会計局判事などを歴任した。1869年(明治2)7月蝦夷開拓使首席判官となり札幌の開拓を決定。朝廷より従四位を贈られ、大学少監、秋田県権令などを歴任した。1874年(明治7)2月、不平士族を抑えるようにとの三条実美の内命を受けて離京西下したが、佐賀の役が起こると憂国党を率いて、政府軍と戦った。乱後、4月13日、江藤新平とともに除族のうえ梟首された。53歳。1916年(大正5)4月、従四位復位追贈。北海道開拓の恩人として、札幌市に銅像が建設されている。

※『明和八年佐賀城下屋舗御帳扣』(2012年、鍋島報效会)によれば、島義勇の出生地は「西田代横 同小路南側 従東到西 六番」で、現在の佐賀市西田代にあたる。

出典:佐賀県大百科辞典p.410