金宝山一乗院観音寺遺跡

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金宝山一乗院観音寺遺跡

■所在地佐賀市金立町大門
■登録ID1731

 金刀比羅山の南麓の階段式畑地を成しているのが其の跡である。寺跡の畑地と山との境界に当山10世の住職権僧正真舜の石像(坐像)を果せた石塔が遺っている。真舜は江戸一乗院14世当山中興の祖であり、金刀比羅神社の鳥居並に石段はこの時代に修築されたものである。
 寺跡を語るものとしては寺跡の南下より東にかけて寺の馬場と呼ばれる地名が残っている。これは昔の名残である。更に大門の地名は昔は此地は熊山と呼ばれていたが当寺が隆昌となり、宏大な山門が構えらるに到って土地の人は大門のあたりだとか、大門のあたりに行くなどと常用せられ何時とはなく熊山の名は失せて地区の名が大門と化し、名づけられて今日に到ったものである。(寺院の建立以前は金刀比羅山も熊山で附近の地区は熊山であった。筆者の幼少の頃は大門の上部の方は熊山と呼ばれていたし、神社の高張提灯や消防組の名は熊山と銘を打っていた時代があった)熊山は元々隈山であったらしい。
  当山の沿革
 当寺は日峯様泰盛様の時代御開基慶舜宝光院宝林院元忠寺住職之内元和中高麗御山陣之節□元忠寺千座万之護摩其外被仰付、山林等五拾町余御寄附被成下僧正地に御取立被下寛永九年に住職仕同十一年に僧正官相勤功又寛永十五年より島原御出陣に付御祈祷被仰付候末御差控御座候砌弟子寛了房円義天海大僧随身の砌にて慶舜と申含天海僧正迄相煩被申侯由、天海公儀之御執成有之首尾能相済み候上同十七年東叡山御参詣被遊旨にて一乗院慶舜え開基被仰付候東叡山一乗院と号候
   開基  僧正  慶舜(寛永元年5月)
二世      昌舜(〃18年5月)
三世      忠舜(寛文11年)
四世  (栄舜)舜栄(延宝5年3月)
五世      宗舜(宝永5年9月)
六世      垣舜(享保15年5月)
   七世  権僧正 真舜(延享2年)
   八世      範舜(天明5年9月)
 以上の記録があるが其の後記録は当神社には見当たらない。
 鍋島家の内庫所書蔵の書類に或は保存されているやも知れない。
兎に角鍋島家代々の祈願所として崇拝せられて廃藩から神仏分離となり廃寺となった。

出典:ふるさと金立(その2)p.1

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