真島 チモ

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真島 チモ

■所在地佐賀市諸富町
■年代近代
■登録ID1618

明治25年(1892)4月19日回船問屋「丸屋」を営む、父利吉、母フミの二女として、東川副村大字徳富(現諸富町)に生まれる。幼少のチモは、明るく、天真爛漫で、わけてもチモの“赤ん坊好き”は並はずれていた。東川副尋常小学校、佐賀成美女学校を卒業し、京都看護学校(同志社看護学校)、横浜ゼネラルホスピタルで高等看護技術を修得した。在日英国大使館から派遣され英領香港政庁付属病院に勤務したのち、大正11年渡英後、欧州に渡り、昭和3年、近代看護発祥の地、英国ナイチンゲール看護婦学校、同4年、英国王立母性教育専門学校を卒業、さらにスイスその他欧州各地において近代看護学の精粋を研修する。昭和4年12月帰国後は、東京市乳幼児保護協会付属児童相談所主任、大阪朝日新聞社社会事業団保健課長、陸軍小倉造兵廠の希望により朝日新聞西部本社厚生事業団、小倉記念病院付属看護婦講習所講師などを歴任。昭和25年6月、参議院議員選挙に立候補したが惜しくも落選した。昭和26年、優良保健婦として厚生大臣表彰を受ける。昭和28年、家族計画会議出席のためスウェーデンへ、国際社会主義会議に日本代表としてストックホルムへ、さらに昭和33年、ストックホルムで開催された世界平和会議に日本産児調節連盟代表として選ばれるほか、看護婦学校の強化、後輩の指導、公衆衛生の普及、農村における母性指導など社会事業の発展に努め、常にその歩みは先導的存在であった。昭和34年(1959)2月24日、真島チモは、諸富町諸富津において、66年の波瀾の生涯を閉じた。死後2年目の昭和36年、真島チモを讃迎思慕する全国の同志相集り「真島先生の胸像」が建立された。現在、福岡県立看護専門学校(福岡県太宰府市)の構内に安置されている。

出典:諸富町史P.1291