力久 辰齋

  1. 久保田町
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力久 辰齋

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1498

明治39年〜昭和52年(1906〜1977)宗教家
 久保田町大立野東、力久辰三郎の次男として同地にて出生。父辰三郎は初め漁業を営んでいたが、のち宗教家として活躍した。当時日本で数少ない霊能透視の大家となり、韓国にまで名を知られる大千里眼であった。辰齋は若い頃神戸で電車の運転士や税務署勤めをしていた。父の他界後、昭和元年20歳のとき初めて宗教的立志を決意する。その後20年、独学・独歩・修学・修行を続け、昭和22年多久市筋原の山上に善隣会を立教、瑞鳳園精神修養道場−天地公道善隣会を立教。その間、昭和9年の文部省主催の全国宗教会議に、神道実行教九州代表として出席、東京日比谷市政会館の大講堂には、神道・仏教その他諸教団の代表が参加、発言された内容は戦時体制下の国策に関することで宗教本来の問題ではなかったので、最終日に緊急発言のかたちで「救世宣言」をした。
 善隣会は後善隣教に改称されるが、神道と天台仏教が習合した考えかたで、行を重視するが、その1つに「百日千里の行」が代表的行で、生家を起点に久保田の香椎神社、天山神社、清水の観音の3社に参り、生家に帰り着くのは日暮れ時である。この行を百日続けるのは可成の難行である。 善隣教は昭和27年7月29日、宗教法人「天地公道善隣会」となり、辰三郎を道祖、辰齋を教祖と称し、現在は教主から継主へと続いている。信徒は九州・四国を始め、関東以西各地に散在し、アメリカにも支部がある。
聖堂のある善隣の園は、福岡県筑紫野市原田にある。享年70歳

出典:久保田町史 p.329〜330