久保田宿

久保田宿

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1467

 戦国時代に繁栄した宿場町
 久保田宿は、町北部の旧長崎街道(国道207号)沿いで、徳万交差点から約800m西に位置している。「明治七年取調帳」では、久保田村の枝村に久保田宿の記録があり、「明治十一年戸口帳」には戸数69戸、人口307人と記録されている。久保田宿は、千葉一統が小城一円に勢力を張っていた戦国時代に、軍用、平常用の物資の取引拠点であったらしく、附近に式町・高町・入道町・西徳万の商業地名をいまに残している。戦国時代には民家・寺院・神社などたびたび兵火にかかり、その面影は失われている。以前は、集落の東の交差点に死角道があり、中世の街道の特色を伺うことが出来た。
 長崎街道を別名シュガーロードといった
 江戸時代、海外貿易の唯一の窓口であった長崎に通じる長崎街道は、様々な人や物が行き来した。その1つに砂糖も数えられている。中国から日本へ大量にもたらされた砂糖は、長崎街道から各地に広まっていった。長崎街道は「シュガーロード」ともいい、久保田宿には砂糖菓子等を製造する商家が数軒あった。集落中央で、国道207号線沿いの北側に祇園社がある。祭神は、素戔鳴尊。暴風神、農業神、英雄神などの神とされる。創建は、天保9年(1838)頃とされる。当時、この地方に災害・疫病が流行し、神助を得るため小城の祇園社から分神を仰いだといわれる。この祇園社で、旧暦の6月15日に夏祭りが行われている。以前は、神事の後歌舞伎役者を呼んでの興行や一幕だけ集落の若者による仁〇加などがあり、境内や道路に出店が並び賑わったという。昭和60年から平成6年まで子供神輿が出されたが、ここ4年ほど余興は中止されている。集落の中心を東西に国道が走っている。この国道は、以前は荷車がやっと行き違えるくらいに狭かったが昭和12年頃改修工事が行われ現在の道幅になった。大島勝さんは「改修工事は、道北側の民家が移転し、南側は軒先を削ったぐらいだった。当時は、人力で道路に栗石を並べて造られたが、この栗石は昭和30年頃水道の敷設工事でなくなった」と話されている。
 昭和31年頃まで駐在所があった
 明治22年、道路北側で祇園社の2軒西側に附近の治安維持のため駐在所が設置されたが、昭和31年頃廃止されている。
 明治・大正・昭和の初め頃は、鍛冶屋(農業用具、刃物)・祈祷師・狂言役者・歌舞伎役者・雑貨屋・鍋や釜の蓋造り屋・大工・桶屋・舞台装置業・畳屋・菓子屋・精米所・按摩さん・履物屋・豆腐屋・乾物屋(イリコ・カツオブシなど)・蒟蒻屋・仏具屋・独楽屋・醤油屋・床屋・酒屋・ユバ屋・ラムネ製造所・ランプ屋・カンピョウ製作・竹屋・士かまど屋(イズミヘッツー、イズミとは、石炭を燃やした殻)・運搬業など多くの商家が軒を並べていた。家の入口は、板戸を手前に引き上げ全開する造りで、入口のそばから道路に面したところは半間の板敷があった。松永安雄さんは「子どもの頃、夏の夕方は裏の堀から水を運び、道路に水まきをし、バンコを出してウチワで仰ぎながら夕涼みをした。大人たちは将棋を楽しんでいた」と話されている。宿交差点から西へ約100m、国道の南から福所の権現社と西持院に通じる道路がある。この道路は、1間ぐらいの広さがあり、道端には外来の疫病や悪霊を防ぎ旅の安全を願う道祖神もあり、一般の人々の往来が多くあっていたのであろう。以前の西持院附近は樹木が多く、久保田宿や周辺の子どもたちは、この森でグミやへボの実、椋の実、野いちごなどを採って食べたりして遊んだ。この集落は、公民館活動が盛んで、毎年集落独自の運動会や文化祭などが催されている。

出典:久保田町史 p.742〜744