福所

福所

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1465

 幸せを願って付けられた地名
 福所は、町の西で国道207号線の南に位置し、西に福所江が流れている。貞享4年(1686)改、天保5年(1834)の郷村帳には独立村として記されているが、嘉永4年(1851)、万延元年(1860)改の郷村帳には久保田村の小字の1つとして記載されている。名前の由来を知る人はいないが、福所とは福が集まる場所。幸せを願って付けられたと思われる。所は、以前は庄の字を充てていた。庄とは、荘園の廃止後、かつて荘園の名を受け継いでいる土地の呼び名であり、福庄もかつては荘園のあったところであろうか。字快満、字恒安、字福庄などの田面下4、5mの層には貝殻まじりの粘土層があり、このあたり一帯は、以前は海であったと考えられる。同集落の古賀昭さん(68)は、「以前福所と丁永へ通じるクリークの中に、大きな木の抗があった。それは船の帆柱だと父から聞いたことがある」と話されている。
 保福寺に龍造寺隆信が度々休息
 福所の交差点から西へ入ると、水田の中に長寿山保福寺がある。この寺は、龍造寺隆信によって天正年代に建立されたと伝えられている。保福寺は、福所江や昔の有明海の海岸線にも近く、付近は格好の狩り場であったと思われ、龍造寺隆信が有明海沿岸に鴨猟に出かけた際に度々立ち寄ったと伝えられている。また、保福寺の西で福所江に人の通れるくらいの小さい板橋があり、芦刈から来る人はこの橋を渡り、村中を通っていったという。この集落の北に、木立に囲まれた閑寂な寺院がある。彦隆山安養寺西持院と大権現の社である。西持院の前から南へ約80m、幅3mぐらいの道路がある。この道路は、西持院馬場という。地元では「しゃあじんばば」と呼び親しみ、参道から大権現までの桜並木は絶景であった。久保田宿からは、弁当持参で花見を楽しむ人達もいたが、この桜は枯れ果てたので、平成元年に再植樹し、また人々の目を楽しませてくれるようになった。
 子々孫々までの繁栄を願う大日如来
 東には興福寺があり、400年前に建立されたといわれている。この寺の境内に大師堂があり、中には大日如来が祀られている。戦前にはこの境内で夏祭りの祇園が行われ、沢山の出店が並び、久保田宿から狂言役者などを呼んでかなりの賑わいがあったという。戦後途絶えていたが、10数年前より子供クラブが中心となり、子々孫々までの繁栄と人々の健康を大日如来に願い、豆祇園が復活されている。字上新ヶ江、字丁永、字中副以北には、八筋濠がある。八筋壕は、条里制のなごりだと思われる。この濠は、農耕のためのものであるが、生活用水としても重要な役割を果たしてきている。秋には、集落総出で掘り干しを行い、用水の確保と副産物としてフナ・コイ・蓮根などをとり、供日のご馳走として客をもてなした。また、菰・葦などの水草やタナゴ・ハヤ・フナなどの小魚、渡り鳥なども多く見られた。享保・天保などの度重なる自然災害により、西の福所江そばに災害や疫病退散を願った天神社が祀ってある。地元では、「おていじんさん」と呼び、12月には現在でも家々にしめ縄を飾りお祭りしている。藤木キヨさん(83)は「以前は、17坪濠井樋から東は中村、西は福所と呼んでいた。30軒前後の家があり、ほとんどが農家であった。いざこざも少なく、のんびりしていた」と話されている。平成3年以降宅地開発が進み、50戸程度であった戸数も100戸を超えるようになった。掘割りと密着した生活形態であった昔、自然と共存しながら祭りと農業の暮らしを住民の結束で支え守り続けて来た。今度はこの先人の功を受け継ぎ、祭りや行事をどう伝承していくかが重要な課題であろう。

出典:久保田町史 p.736〜739