下新ヶ江

下新ヶ江

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1462

  多くのまつりが続けられている
 下新ヶ江は町の南西部で、国道444号線沿いに位置している。宝暦郷村帳(1751〜64)では、久保田村の小村に新ヶ江村とあり、天明郷村帳(1781〜89)では小村に下新ヶ江とある。新ヶ江は新開からつけられており、新開とは荒地を新たに開墾して、田畑や宅地にしたもので、江は川や海などの呼び名であるが、特に陸に入り込んでいる部分をいう。つまり、福所江筋の荒地を開墾した土地ということであろう。久保田宿西口から上新ヶ江を通り三丁井樋を経て芦刈村に通じる道路は、大正7年頃に着工されているが、下新ヶ江部分は昭和9年頃に完成している。それまでの芦刈村へ通じる道路は、中野禮吉さん宅前の道路を南へ通り、原田信義さん宅の南から右へ曲がって堤防へ上がる。その道幅は、やっとリヤカーが通れるくらいであったという。岡島アサ子さんは「子どもの頃、窓の梅の小さなトラックが、酒を積んで通ったのを見たことがある」と話されている。
  鵜飼いの船も下った福所江
 集落の西に福所江があり、その途中に何ヶ所か荒籠があった。その荒籠の下流で大正時代まで四手綱が行われ、佐賀市の人が操る鵜飼いの船が上流から下って来た。古賀勝さんは「船が来ると網を下ろし、鵜に追われた魚(鰻・ボラ・鯰など)をうっとい(網)で何杯も掬って獲った」という。また、福所江排水樋門の改修は、昭和35年に行われ、村管理の三丁井樋の改修工事は昭和29年ごろに行われている。以前の福所江樋菅は石造りで、芦刈側に2つと久保田側に2つあり、その真ん中には恵比寿大黒さんが祀られていた。この恵比寿さんは、福所江橋の改修の時に、北側の管理道路の真ん中に移されている。集落の南の国道444号線(旧県道大川・鹿島線)は、戦国末期(1600)の潮土井線で、以前は萱が生い茂り人々が農作業などの行き来で利用するくらいであった。この道路改修は、昭和45年に久保田橋の開通で完了している。
  邑主村田家の米倉庫もあった
 福所江橋の東で、道路南に3軒の民家と昭和44年に建てられた漁業組合の培養場があったが、度々の高潮の被害で昭和52年頃に移転している。その中に、大正時代まで邑主村田家の米倉庫があった。またこの附近は、大正・昭和期になって、カキ養殖が盛んになると、共同のカキムキ場となっている。三丁井樋前から堤防を50mほど南へいった右側に広場があった。以前はここに熊本県八代などから砂利などが運ばれ、また藁の積み出しにも利用されている。この広場の堤防から南へ200mぐらいの所に大神杜がある。境内の石柱には、大正14年と刻まれている。大神社は、以前は福所江排水樋門そばにあり、昭和30年代までは旧暦6月23日に舞台を作って豆祇園が行われていた。大神社の南に、大正8年と刻まれた金毘羅社の石祠がある。金毘羅社は、以前は培養場の東にあった。大正から昭和の初めころまで、夏になると金毘羅さんの祭りがあり、役者さんたちが近くの民家に泊まって芝居をしていたという。4月の第2日曜日に英彦山参りが行われている。4つの班が回りばんこで、8〜9人の人がお参りをした。戦前は、1月7日に「やんぼしさん」が各家々を周り、家の角に置かれた水をかぶって回ったという。この集落では、昭和57年頃まで沖の島さん詣り(旧6月19日)が行われていた。当日は、夜の8時頃から船出し、翌日の昼過ぎに帰ってくる。陣内峰雄さんは「若い頃は、芦刈と久保田から10艘ぐらいの船が出ていた。芦刈には3本マストの100トンもある船が2艘もあった」と話されている。沖の島さん詣りは、他に上新ヶ打や永里でも行われていた。以前のこの集落には、雑貨屋と酒屋があった。また、般若さん、四万六千日、念仏、お地蔵さん、12月第2日曜日には集落のお祭りなど、多くの祭りが続けられている。

出典:久保田町史 p.728〜730