永里

永里

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1461

  信仰心が厚い人々が暮らしている
 永里は、久保田町の南西で国道444号線から北へ約500mの所に位置する。金丸と永里を結ぶ線は、中世の海岸線上で、自然陸地化から干拓へ移行する漸移線上とみられている。永禄10年の龍造寺隆信判物に、太俣郷内に散在した西持院領として「1反(大坪)作(同永里之内)」の記録がある。正保絵図に永里の記録があり、天明3年(1783)の郷村帳には、永里村の小字に上永里・下永里の記載がある。明治十一年戸口帳によれば、久保田村のうちに永里村とあり、戸数57戸、人口318人と記録されている。
  永里盛秀と何等かの関わりが
 名前の由来を知る人はいないが、およそ600年前に福所の天台宗西持院を建立した永里盛秀と何等かの関わりがあるものと思われる。久保田内に西持院(福所)の檀家が20軒ほどあり、その内8軒が永里にある。明治以降は、下新ヶ江と永里が一緒に統括されていたようであるが、大正の終わり頃に下新ヶ江から分離して「永里集落」として独立したとも伝えられている。永里集落は、東西に走る道路を挟んで家が建ち並んでいる。この道路は、横江から金丸、永里、下新ヶ江、三丁井樋を経て芦刈町へと続いている。戦前のこの道路は、馬車が通れるくらいの道幅で、道路南の家のそばには大きな楠の木があった。白石、福富方面から佐賀に向かう通勤、通学やまた芦刈方面への魚類や雑貨などの行商人たちの通行もかなり多かった。集落の中ほど(鶴丸正士さん宅西側)に、リヤカーの通れるくらいの道路があり、北へ福所から西持院のそばを通り久保田駅へと続いていた。西高輝さんは、「子どもの頃、この道路を幌馬車が通ったのを見たことがある」と話されている。集落の東で中島清さん宅の東側には、福島集落へ続く道があった。この道は、集落の人から「学校ノンボイ」の名で親しまれ、朝夕の学童の通学路として、また永里の人々が佐賀方面へ行く時は、横江には出ずこの道を利用しており、年2〜3回集落総出で砂入れや除草などの作業が行われていたという。
  明治の頃まで寺子屋があった
 集落の中ほどの道路北側に、明治の頃まで寺子屋(現西高輝さん宅)があった。山田ヤス子さん(75)は、「子どもの頃母から、寺子屋の授業を縁の端に立って、子守りをしながら聞いていた。と聞いたことがある」と話されている。集落の東に、朱塗りの鳥居の正一位稲荷神社がある。いつ頃建立されたかは分からないが、境内には明治16年と刻まれた石柱がある。12月8日のお祭りの時は、4つの班の代表が、お供えやお神酒を上げて翌年の農作物の出来高を占ってもらう。この日は、家々からお参りをし、夕食を兼ねた懇親会を設けている。また、12月15日(現在は第2日曜日)は、村祭りで班ごとに収穫の感謝とちゃごうちの懇親会が行われている。この集落では、大般若祭、大日如来祭、四万六千祭、施餓鬼供養などが続けられている。祇園祭は7月10日で、以前は神社の周りにあめ湯、駄菓子、ラムネ、ところてん等の出店が出され、人々の楽しみでもあった。境内には、永里集落の農業振興に尽力された福富集落の醸造家古賀文一郎翁の頌徳碑がある。この碑は、大正15年永里集落の有志の発起によって建立されている。神社の境内と道路の境に土塁があり、そこに大きな桜の木が10本以上もあった。戦前には、春になると集落総出の花見も行われたこともあった。永里集落では、昭和38年まで「踊り浮立」が秋のお供日に行われていた。笛・鉦・大太鼓・銭太鼓それにお化粧をして、長襦袢などで着飾った婦女子の「もりゃあし」など多彩でリズミカルな浮立であったという。以前のこの集落には、呉服屋・床屋・荒物屋・酒屋・うどん屋・豆腐屋・八百屋・また刀研ぎ屋などもあった。

出典:久保田町史 p.725〜727