横江

横江

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1459

  嘉瀬川の蛇行が横江となって
 横江は、町のほぼ中心部に位置しており、大立野、金丸、永里を結ぶ中世の干拓堤塘線に成立した集落である。
横江村は、江戸期の村名で佐嘉本藩太俣郷に属している。「正保国絵図」「天明村々目録」「天保郷帳」では、新田村の枝村として記録されている。「明治七年取調帳」でも新田村の枝村と記録があり、「明治十一年戸口帳」では新田村のうちに横江村とある。戸数36戸、人口170人と記録されている。名の由来は、嘉瀬川の蛇行が横江となって入っていたところより名付けられたとみられるが、近世の中期頃、河川の蛇行を直す工事が行われ、河港津も大立野に移動したとみられる。
  横江には学校があった
 県道より西へ、横江橋を渡った道路北に学校があった。明治22年、思斉小学校の横江分校として設立された。明治25年には新田尋常小学校と改称され、明治34年に久保田第二尋常小学校と校名を変更している。この学校には、大立野・横江・永里・下新ヶ江・福富・久富・搦の子どもたちが通っていた。学校の屋根は、藁葺きで、教室も12室あり、講堂も児童数にしては大きいものであった。学校の中に井戸が2ヶ所あり、集落の人も利用していたと記録にある。しかし、1村に上・下の学校があっては心情的によろしくないとの考えから、昭和2年4月に現在の思斉小学校の場所に合併設立された。
  残したい伝統芸能面浮立
 県内の民俗芸能で、代表的なものに浮立がある。源流は、中世にさかのぼり、近世に完成された芸能である。農事を祈願して社寺に奉納する芸能として発達し、町内に7つほどある浮立の中で横江は面浮立である。今から140年ほど前に長崎県高来町湯江から2人の若者が西横江の某家に日雇いにきていた。仕事を終えて夜になると、そのうちの1人が1日の労を慰めるがごとく横笛を吹いていた。その音色が美しく、何とも言えない味があったので、近くの人々は自然と集まって来た。「これは何の笛か」と問うたら「浮立の曲だ」と答え、もう1人の若者が笛の曲に合わせて踊って見せた。この笛の音色といい、踊りも勇壮だったので湯江に習いにいったり、湯江から指導に来てもらったりして現在の横江の浮立がある。4年毎に集落の八幡社や快万の香椎神社の神社御前で舞い、町民の幸せと豊作を祈願している。永瀬義明さん(73)は「以前は、町外(佐賀市など)の知人・友人・親類縁者の家まで舞いにいっていたので3日間余りかかっていた。この伝統芸能は、絶対に絶やしてはいけない」と話す。横江集落公民館の南に八幡社がある。人々から八幡さんと親しまれてきた社には、3体の神を祀ってある。以前は集落の南東にあって、旧暦の6月18日(8月9日)にお祭りをし、夜店まで出て賑わったという。現在は、8月2日を祇園の日としている。岸川栄次さんは「子どもの頃は、祇園の時に舞台を作り、蚊に喰われながら泊まっていた」と話されている。この境内には、以前は立派なお堂があり、周りは広くて桜が植えてあった。春ともなれば桜の花が咲き誇り、人々はご馳走をもってお籠りをやり、お互いの心のふれあいの場とした。この八幡社は、圃場整備後(昭和52〜3年頃)現在地に移されている。戦前のこの集落には、酒屋・駄菓子屋・仕出屋などがあったが、多くは金丸の原田商店を利用していた。公民館西に、昭和23年設立の久保田第一農業協同組合があったが、昭和43年久保田町農業協同組合と合併された。また、昭和38年宇治端(福富集落)から駐在所が横江に移ってきている。平成4年、住宅団地が出来始めるが、それまでは40戸ぐらいの小さな集落であった。

出典:久保田町史 p.719〜722