大立野東

大立野東

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1452

  漁港として活況を呈した
 大立野東は、町の南東部で久保田橋より600mほど北側で、嘉瀬川沿いに位置する。貞享4年(1687)改正「御領中諸郡郷村帳」では小村に大立野があり、明治7年取調帳では枝村に大立野津がある。明治11年戸口帳によれば、大立野津159戸・人口846人とある。大立野津は、近世の中ごろ、横江付近の蛇行を直す工事が行われ、ここに河港が移ったと考えられる。天明7年(1787)久富と大立野に御番所が設置され、物資の出入りと人の移動を監視した。その場所には、懸札が掲げられたというが、今は知る人もいない。
  明治17年漁浦に指定
 明治17年この港が漁浦に指定され、有明海一帯を漁場とする漁港として活況を呈した。この大立野の船着場を古老たちは「しんあらこ」と呼んだ。この集落の中ほどに、消防車庫がある。ここは以前、魚市場があった所である。明治27年、それまで大立野村の地区経営市場を久保田宿の石川謙介氏が、石川魚市場(魚問屋)として引き継いだ。昭和2年、謙介氏の息子石川又八氏が株式会社石川魚市場と改組した。販路は、佐賀市・佐賀郡・小城郡・杵島郡福富村にわたり、荷元は有明海産のみならず、伊万里・唐津・呼子・佐世保・長崎・福岡に及んでいた。当時、魚仲買50人・小売人50人ほどが出入りし、県内の農村部では有数の魚市場となった。西岡嘉一さんは「昔は市場があって、仲買人があちこちから寄ってきて活気があった。今は、市場も無くなってさびしくなった」と話す。戦前に自転車が普及する前は、ウーゴメ(大きな笊)を3段づつ下げて、イノーテ(担いで)魚を運んだという。この魚市場は、昭和40年佐賀市魚市場に合併されたが、昭和60年には廃止されている。大正6年5月、この魚市場の一角に大立野郵便局が設置されている。昭和27年魚市場の100m西に移転するが、昭和32年電話交換機を水害から守るため2階建ての局舎が建設され、さらに5mほど西に移転することになった。その後、大立野郵便局は昭和57年に、久富東の久保田橋そばに新築移転している。
  賑わった沖祇神社
 集落の東の堤防沿いに、沖祇大明神がある。二の鳥居には、維時文政3年(1820)と刻まれている。地元では、「おーがんさん」と呼ぶ。以前は堤防の東にあり、広い境内に何本もの桜の木があった。戦前の春祭りは、集落総出で花見やお籠りをし、その後は中副のひやーらんさんに御参りをしていたという。戦後は、旧暦の8月1日(八朔の日)に青年団が御神体を水で洗い、また手作りの舞台を作り男女の団員による芝居(忠臣蔵、佐渡情話、名月赤城山など)や舞踊などが行われた。観客は、集落住民だけでなく他町村からも人が訪れ、1000人ほどの見物客で賑わったという。古賀正人さんは、「その頃は、夜店が神社の境内から嘉瀬川堤防上に窓乃梅酒造あたりまで並んだ。大変な賑わいだった」と話す。その後、沖祇神社は、嘉瀬川改修工事で昭和28年に現在地に移転している。現在は、子供クラブによる手造りの神輿で、集落内をねり歩いている。昭和30年12月、集落に火事が発生し、住民の合意のもと、その年より現在まで毎年12月15日から3月15日まで、夜の10時を合図に夜回りが続けられている。戦後の世帯数は、102戸ほどあり、1戸に4世帯が住んでいるところもあった。以前は、漁師や魚の行商が多く、その他には蒲鉾屋5軒・キャンデー屋・食堂2軒・酒屋・遊技場(ビンゴー屋)・石屋・金物屋・豆腐屋・畳屋・床屋2軒・自転車屋・雑貨屋・醤油屋・下駄屋・駄菓子屋4軒・風呂屋・薬屋・千里眼・羽衣協会などがあった。昭和25年頃映画館も出来ているが、興行主の死去で31年頃閉館している。

出典:久保田町史 p.699〜702