麦新ケ江

麦新ケ江

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1449

  以前は嘉瀬郷十五村内
 麦新ケ江は、町の東部で嘉瀬橋より800mほど下流にあたり、嘉瀬川沿いに位置する。以前の麦新ヶ江は、佐賀郡嘉瀬郷十五西分の小字であったが、嘉瀬川の短絡により、現在は久保田に属している。かつては、麦新ヶ江の西を嘉瀬川が蛇行していた。「疏導要書」(天保5年南部長恒著)によれば、嘉瀬・久保田の土井筋に決壊の憂いあり、久保田邑主村田氏から藩当局に願い出てショートカットした。麦新ケ江の曲がりは、寛延3年(1750)に掘り切られたとある。完成は、宝暦5年(1755)である。
 宝暦郷村帳(1752)では、嘉瀬郷十五村の小村に麦新ヶ江とあり、天明郷村帳(1783)では十五西分の小村に麦新ヶ江の記録がある。明治七年取調帳では、新田村の枝村に麦新ヶ江と記録され、明治十一年戸口帳によれば新田村の小村に麦新ヶ江とあり、戸数15戸・人口84人とある。名の由来を知る人はいないが、麦新ヶ江とは嘉瀬川流域の新開地で、この辺りに以前は麦が多く耕作されていたものであろうか。
  麦新ヶ江にも渡し場が
 昭和25年からの嘉瀬川改修以前は、麦新ヶ江の集落から南東に小さな道があり、嘉瀬川堤防(現森林公園内)へと続いていた。そこに対岸の嘉瀬村十五へ渡る渡し場があった。この渡し場は、いつ頃開設されたかは不明だが、堀替え直江(1755)の後通行人の渡り場所になったものと考えられる。
 戦前には、渡し守がいてその家もあった。渡し場の上流には、竹林があって、お盆の花筒などに利用されるほどの大きさがあり、渡し守はその管理役でもあったといわれる。満潮の時は、渡し船を利用し、干潮の時はH型に組んだ木の杭に幅40~50cmの板が渡され、中央にはダンベと呼ばれる小船が備えてあった。この渡し場には、嘉瀬川堤防を大立野から魚を運ぶ魚屋さんや芦刈方面の人も利用していた。また、上手な人は、自転車に乗って渡る人もいたという。昭和10年頃の渡し賃は、2銭であった。
 小城郡三日月町在住の田中アサノさん(80)は「祖父の代は、嘉瀬村の十五で渡し守をしていたと聞いていた。父の代に、麦新ヶ江に移り、ここでは昭和12~3年頃まで渡し守をしていたと思う。以前は、通行人が多く、川の両岸に渡し守がいて、大雨の時は、渡し場の上の板をキャー流さんごと外していた」と話されている。
  大正時代にレンガ工場があった
 麦新ヶ江には、宇迦魂命を祭神とする神田神社・応神天皇を祀る八幡宮・天照皇大神を祀る大神宮・菅原道真を祭神とする天満宮・海津童神を祭神とする沖神社と5社の鎮祀があったが、明治41年香椎神社へ合祀された。その後、集落内に病人が続くなどの理由で元の所に戻されている。
 八幡宮は、集落南西の道路側にあり、石祠には安永4年(1775)と刻まれている。以前は、12月15日が村まつりで、昭和30年代初めまで境内にお堂があった。ここで、子どもたちの豆祇園も行われている。
 大神宮は、現建設省嘉瀬川出張所の200mほど東で、畑のミカンの木の側にあったが、現在は集落北裏に移されている。天満宮は、得仏橋付近の川中辺りに小さな堤防があり、その上にあったが、昭和25年以降の嘉瀬川改修工事で得仏橋西の堤防下に移転している。
 集落北(現寶琳寺の辺り)に、大正時代にレンガ工場があった。大きな煙突を備えたドーム式の工場が2~3棟あり、工場西側の田畑から土を取りレンガを作っていた。横尾繁雄さん(85)は、「小学生の頃、冬は工場の中が暖かく、よくその中で温もっていた」と話されている。
 麦新ケ江は、昭和28年~9年頃まで新田と一緒に浮立を出していた。この浮立は、「ねじもりやあし」と呼ばれ、胸に太鼓を抱え、体を大きく反らす踊りで、他には見られないものだったという。
 この集落出身に、第11代村長の光野熊蔵氏(明治44年4月就任)がいる。大変な豪傑だったといわれる。

出典:久保田町史 p.691〜694