徳間

徳間

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1443

  
 徳間は、町の北東部で国道207号線沿いの町東・町西集落の北に位置する。昭和13年徳万宿北裏の禅門井樋尻改修工事中、地下4~5尺位のところから弥生時代の土器が出土している。このことから、この地域には紀元前1世紀から3世紀ごろには久保田の先祖が住んでいたと考えられる。
 明治15年の佐賀県各町村字小名取調書には、徳万村の小字に徳間の記録がある。徳間は、以前は快万と一緒であったが、生産組合の関係で昭和26年頃分かれたのであろうと古老たちはいう。徳間という地名は、明治時代に付けられたというが、名の由来を詳しく知る人はいない。徳万と快万の間にあるところから付けられたものであろうか。
  町内用水の重要な取り入れ口
 徳間集落の北東の嘉瀬川堤防に、町の重要な用水確保のための禅門井樋とその南に水取井樋(地元では、みっとい井樋と呼ぶ)がある。水取とは、水を取ることだが、禅門井樋はなぜそう呼ばれているか詳しくは分からない。また、いつ頃の構築であるかも分からないという。この井樋は、以前は木製であったが、昭和13年頃錠戸を石門の捲き上げ式鉄扉に改造された。藩政時代には、この禅門井樋と水取井樋の管理は武士が行っていたという。壽昌寺の遠田宗壽さん(84)は「昔は、井樋の管理を武士が周期的にやっていて、昼食の時はお寺に休憩をしにきていた。と子どもの頃父から聞いたことがある」と話されている。戦後間もなくまで、嘉瀬川堤防上に井樋番がいた。以前は、堤防には竹が生い茂り、その竹林の番も兼ねていたので、「ひゃーし番」とも呼ばれた。禅門井樋と水取井樋の間の嘉瀬川堤防上に大日観音(じゃーにっつあん)の石祠がある。昭和30年頃までは、秋に集落総出で弁当を持ってお参りをしていた。水取井樋の近くに徳久集落の公民館がある。大正の頃までは、この公民館から東は嘉瀬川の堤防であったという。川掃除のたびにここに砂を上げて高くなっていたので、高土井(たかでー)と呼ばれた。この砂は、大正時代に北田にある製紙会社の盛土に運ばれている。禅門井樋から乗越へ通じる道路は、以前はもっと高かったが、砂を運ぶトロッコを通すために平に削ったという。この道路は水受け土井と呼ばれ、禅門井樋から乗越までに33本の松があり、戦時中には大きな松の木のそばに防空壕が掘られていたこともあった。高土井の砂は、戦後間もなく進駐軍もトラックで搬出している。椛島ツルヱさん(74)は「その当時、近くの田圃に水を入れるため水車を踏んでいたが、砂を運びにきていた進駐軍の兵士5~6人が見に来たのでとても怖かった」と話されている。この高土井の中央付近に、大きな松の木があり、その側に昭和8年に馬頭観音が立てられたが、昭和21年ごろ嘉瀬川堤防上に移されている。
 窓乃梅酒造も水汲みに来ていた
 徳間公民館附近は、以前は川であった。明治の頃から戦後まで、水取井樋や徳間公民館附近から、冬になると窓乃梅酒造から5~6台の馬車が幅1m長さ4mぐらいの木箱を積んで水汲みにやって来ていた。水を汲んだ馬車が何台も通った集落の道は、馬車の轍のあとで雨が降るとぬかるむようになり、徳間の住民が補修をしていたという。大正時代の戸数は8戸ぐらいで、その中に乾物や麻製品を商う店があったが、昭和の初期に町東に移転している。集落の中程に壽昌寺と西に本能寺があり、その中間に陽盛庵という寺もあったが、150年ほど前に同じ臨済宗の壽昌寺に合併されている。この周辺には、桑畑が多くあり、大正時代に徳万町には繭・生糸仲買商が4軒もあったという。土橋俊一さん(83)は「大正時代は、徳間集落で3~4軒は蚕を飼っていた」と話されている。徳間集落には、昭和28年から事業が始まった県営水道事業(現西佐賀水道企業団)、昭和53年に送水が始まった杵島工業用水道企業団があり、また現在は佐賀西部広域水道企業団の建設工事が禅門井樋北側で行われている。

出典:久保田町史 p.672〜674